返り点に対する「括弧」の用法について提案

「漢文の補足構造」を表す「返り点・括弧」。

―「この記事」は、書き直します。―
(01)
( )は、『括弧』である。
(02)
{ }の中には、1個以上の[ ]が、無ければ、ならない。
[ ]の中には、1個以上の〔 〕が、無ければ、ならない。
〔 〕の中には、1個以上の( )が、無ければ、ならない。
(03)
( )は、〔 〕と[ ]と{ }の中に入ることが出来、
〔 〕は、    [ ]と{ }の中に入ることが出来、
[ ]は、        { }の中に入ることが出来る。
(04)
(01)~(03)を「満たす」ならば、『括弧』である。
従って、
(04)により、
(05)
①    ( )
②   〔( )〕
③  [〔( )〕]
④ {[〔( )〕( )]}
等は、『括弧』である。
(06)
1=1
2=2
3=3
4=4
5=5
6=6
7=7
8=8
9=9
A=10
B=11
C=12
D=13
E=14
F=15
は、「16進数(Hexadecimal)」である。
従って、
(07)
④ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F。
は、「15個の、16進数数」である。
従って、
(07)により、
(08)
④ 1 E{2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D}F。
に於いて、
④ 1 より、「小さい数」は無い。
(09)
{2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A
に於いて、
より、「きい数」は無い。
(10)
④ 2 C[8 6 3 4 5 7 B 9 A]
に於いて、
④ 2 より、「小さな数」は無い。
(11)
[8 6 3 4 5 7 B 9
に於いて、
より、「きい数」は無い。
(12)
〔6 3 4 5
に於いて、
より、「きい数」は無い。
(13)
(34
に於いて、
より、「きい数」は無い。
(14)
(9
に於いて、
より、「きい数」は無い。
(15)
④ D}E。
に於いて、
④ D より、「小さい数」は無い。
然るに、
(16)
④ # は、
④ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F。
の中の「一個の、任意の16進数」であるとする。
従って、
(06)~(16)により、
(17)
④ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F。
に於いて、
④ #の「右側」にあって、#よりも「小さな#」があれば、それらを、『括弧』で「括る」ならば、「結果」として、
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F。
といふ『括弧』を、得ることになる。
従って、
(17)により、
(18)
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F。
といふ『括弧』は、
④ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F。
といふ「15個の、16進数数」の、「左右に於ける、大小関係」を表してゐる。
従って、
(17)(18)により、
(19)
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F。
に於いて、
④ E{ }⇒{ }E
④ C[ ]⇒[ ]C
④ 8〔 〕⇒〔 〕8
④ 6( )⇒( )6
④ B( )⇒( )B
といふ「移動」を行ふと、「左右に於ける、大小関係」は、「逆転」し、それ故、
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F⇒
④ 1{2[〔(345)67〕8(9A)B]CD}EF=
④ 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(19)により、
(20)
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也=
④ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也=
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F。
に於いて、
④ E{ }⇒{ }E
④ C[ ]⇒[ ]C
④ 8〔 〕⇒〔 〕8
④ 6( )⇒( )6
④ B( )⇒( )B
といふ「移動」を行ふと、
④ 1{2[〔(345)67〕8B(9A)]CD}EF=
④ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也=
④ 我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(20)により、
(21)
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
④ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ『括弧』を与へることは、
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
④ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F。
といふ「順番」を与へることに、「等しい」。
然るに、
(22)
④ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F。
④ #地{#丙[下〔二(##一)上〕乙(#甲)]天}#。
に於いて、
④  地  丙 下 二   一 上 乙  甲  天
は、「返り点」である。
従って、
(22)により、
(23)
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
④ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F。
といふ「順番」を与へることは、
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
④   地  丙 下 二     一 上 乙  甲 天
といふ「返り点」を与へることに、「等しい」。
従って、
(21)(23)により、
(24)
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
④   地  丙 下 二     一 上 乙  甲 天
といふ「返り点」を与へるこは、
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
④ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ『括弧』を与へることに、「等しい」。
然るに、
(25)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(24)(25)により、
(26)
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也=
④ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也=
④ 1E{2C[8〔6(345)7〕B(9A)]D}F⇒
④ 1{2[〔(345)67〕8B(9A)]CD}EF=
④ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也=
④ 我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ「漢文訓読」に於ける、『括弧』は、
④ 我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(27)
我 非 生 而 知 之 (金谷治 訳注、論語、1963年)。
怪 奇 偉 麗 者 也(天野成之、漢文基本語辞典、1999年)。
⑦ 求 以 解 英 文 法 解 漢 文(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年)。
といふ「例文」に「基づいてゐる」ため、
我 非 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也
といふ「作例」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(28)
仮に、
我 非 必 求 以 解 中 国 語 法 解 漢 文 者 也
といふ「作例」が、万々が一、「マチガイ」であったとしても、いづれにせよ、
生 而 知 之
といふ「論語」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(29)
【非】①(動)・・・にあらず。・・・ではない。・・・ということはない。:後にくる名詞やクローズを打ち消すことば。
(学研 漢和大辞典、1978年、1457頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
⑤ 我 非 生 而 知 之 者。
といふ「漢文」は、
⑤ I am not 生 而 知 之 者。
⑤ I am not a person who knows this naturally.
といふ「意味」である。
従って、
(31)
⑤ 我 非 生 而 知 之 者。
といふ「漢文」は、
⑤ 私は〔a person who knows this naturally〕ではない。
といふ、「意味」である。
然るに、
(32)
⑤ 生 而=生まれながらにして
であるため、
⑤ 生 而=naturally
である。
然るに、
(33)
⑤ 生 而=naturally
は、「修飾語(副詞)」であるため、
⑤ 生 而=naturally
は、「補足構造」には、与らない
(34)
⑤ 知 之=knows this
であるため、
⑤ 知 之=knows this
には、「補足構造」が、有ることになる。
然るに、
(35)
⑤ 知(之)=knows(this)
といふ「補足構造」が有るとする。
従って、
(31)(35)により、
(36)
⑤ 我 非 生 而 知 之 者。
といふ「漢文」には、
⑤ 我 非〔生 而 知(之)者〕。
といふ「補足構造」が有る。
然るに、
(25)により、
(37)
漢文の補足構造」に於ける「語順」は、「国語の補足構造」の「語順」と、「反対」である。
従って、
(35)(36)(37)により、
(38)
⑤ 我 非 生 而 知 之 者=
⑤ 我 非〔生 而 知(之)者〕=
⑤ 1 7〔2 3 5(4)6〕。
に於いて、
⑤ 7〔 〕⇒〔 〕7
⑤ 5( )⇒( )5
といふ「移動」を行ふと、
⑤ 1 〔2 3 (4)56〕7=
⑤ 我 〔生 而 (之)知者〕非=
⑤ 我は〔生まれながらにして(之を)知る者に〕非ず。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
平成29年07月21日、毛利太。

有り得ない「返り点」について。

(01)
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ID非公開さん2017/6/2822:54:10
漢文の返り点の打ち方なのですが、5文字で13542の順で読めるようにするにはどうすれば良いのでしょうか?
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kiebine2007さん 2017/6/2918:39:25
そんな語順は存在しません。これでは、1、3が動詞で、2が両方の目的語のようになり、さらに54という組み合わせの得体の知れないものがあり、動詞とも目的語とも何とも正体不明。こんな漢文はありえない。漢文どころか、世界中どこの言語を見てもあり得ない語順だろう。
然るに、
(02)
① 我読書=我、書を読む。
① 132
① 常読書=常に書を読む。
① 132

である。
従って、
(02)により、
(03)
① 13
であれば、
① 1 は、「主語」か、
① 1 は、「副詞」の、「いづれか」である。
然るに、
(04)
① 我文読書怪=我、怪文書を読む。
① 13542
のやうな「語順の漢文」は、有り得ない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
「1、3が動詞で、2が両方の目的語のようになり」といふ「部分」が、私には、よく分からないものの、
① 1 3 5 4 2。
のやうな「順番」に対しては、「返り点」が、付けられない。といふことに関しては、kiebine2007さんの「回答」は、「正しい」。
(06)
(α)「上(左)から下(右)へ、読む」場合に、「返り点」は、付か
(β)「下(右)から上(左)へ、読む」場合に、「返り点」は、付く。
従って、
(06)により、
(07)
① 1 3 * # 2。
に於いて、
①         * #
に対して、「返り点」が付いてゐない場合は、
① 1→*→#→2→3。
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(08)
① 1→*→#→2→3。
といふ「順番」で、読むのであれば、
1=1
3=5
*=2
#=3
2=4
といふ「順番」で、読むことになり、その場合の、「返り点」は、
1=1
3=5=二
*=2
#=3
2=4=一
に於ける、
①   二     一
といふ「一二点」が、「それ」である。
従って、
(09)
① 1 3 * # 2。
といふ「それ」を、
① 1→2→3→#→*。
といふ「順番」で読もうとするならば、
① 1 3 * # 2。
に付く「返り点」は、
①     二 四 三 一
でなければ、ならない。
然るに、
(10)
①     二 四 三 一
であれば、
①   二 → 三
を含んでゐるため、
①     二 四 三 一
といふ「それ」は、
(α)「上(左)から下(右)へ、読む」場合に、「返り点」は、付かない
といふことと、「矛盾」する。
従って、
(04)(10)により、
(11)
ヤフー!知恵袋で、
ID非公開さん2017/6/2822:54:10
が「質問した、
① 1 3 5 4 2。
といふ「順番」に対しては、「返り点」を、付けることが、出来ない
然るに、
(12)
① 1 3 5 4 2。
であれば、
①   3<5>4>2
であって、尚且つ、
①   3-2=1
である。
従って、
(12)により、
(13)
① 3<5>2
② 3<4>2
のやうな「順番」、すなはち、
③ M<N>M-1(NとMは、正の整数)
といふ「順番」を含む所の、「順番」に対しては、「返り点」を、付けることが、出来ない。
然るに、
(14)
① 1 3(4〔2)〕。
に於いて、
① 3( )⇒( )3
① 4〔 〕⇒〔 〕4
といふ「移動」を行ふと、
① 1 3(4〔2)〕⇒
① 1 (〔2)3〕4=
① 1 2 3 4。
(15)
② 1 3(5[4〔2)〕]。
に於いて、
② 3( )⇒( )3
② 5[ ]⇒[ ]5
② 4〔 〕⇒〔 〕4
といふ「移動」を行ふと、
② 1 3(5[4〔2)〕]⇒
② 1 ([〔2)3〕4]5=
② 1 2 3 4 5。
然るに、
(16)
① 1 3(4〔2)〕。
② 1 3(5[4〔2)〕]。
に於ける、
①    (  )〕
②    ( [ 〔 )〕]
といふ「それ」は、「括弧」ではない
従って、
(11)~(16)により、
(17)
① 1 3<4>2。
② 1 3<5>4>2。
のやうな「順番」、すなはち、
③ M<N>M-1(NとMは、正の整数)
のやうな「順番」を含む「順番」に対しては、「返り点・括弧」を、付けることが、出来ない
従って、
(18)
③ M<N>M-1(NとMは、正の整数)
のやうな「順番」を含まない「順番」に対しては、「返り点・括弧」を、付けることが、出来る。
然るに、
(19)
④ 55〈49{3(1 2)33[5(4)8(6 7)10(9)11 12 23〔15(13 14)17(16)18 19 20 22(21)〕25(24)29〔28(26 27)〕32(30 31)]36(34 35)48[40(37 38 39)43

〔42(41)〕47〔46(44 45)〕]}54〔53(50 51 52)〕〉
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
例へば、
④ 55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 

41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
といふ「順番」は、
③ M<N>M-1(NとMは、正の整数)
のやうな「順番」を、含んではゐない。が故に、「返り点・括弧」を、付けることが出来る。
然るに、
(21)
(α)「上(左)から下(右)へ、読む」場合に、「返り点」は、付か
(β)「下(右)から上(左)へ、読む」場合に、「返り点」は、付く。
といふことから、
④ 55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 

41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
といふ「順番」に於いて、
④「返り点」が付かない「数」を、「α」で「置き換へ」ると、次のやうになる。
④ 55 49 3 α 2 33 5 4 8 α 7 10 9   α   α 23 15   α 14 17 16   α   α   α 22 21 25 24 29 28  α 27 32   α 31 36   α 35 48 40   α   α 39 43 42
41 47 46   α 45 54 53   α   α 52。
然るに、
(22)
④ 55 49 3 α 2 33 5 4 8 α 7 10 9   α   α 23 15   α 14 17 16   α   α   α 22 21 25 24 29 28  α 27 32   α 31 36   α 35 48 40   α   α 39 43 42
 41 47 46   α 45 54 53   α   α 52。
から、「α」を「除く」と、次のやうになる。
④ 55 49 3 2 33 5 4 8 7 10 9 23 15 14 17 16 22 21 25 24 29 28 27
32 31 36 35 48 40 39 43 42 41 47 46 45 54 53 52。
然るに、
(23)
④ 55 49 3 2 33 5 4 8 7 10 9 23 15 14 17 16 22 21 25 24 29 28 27
32 31 36 35 48 40 39 43 42 41 47 46 45 54 53 52。
といふ「順番」に対して、改めて、「1から39迄」の「数」を「付け直す」と、次のやうになる。
⑤ 39 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31 38 37 36。
然るに、
(24)
⑤ 39 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31 38 37 36。
に対する「括弧」は、当然、
④ 55〈49{3(1 2)33[5(4)8(6 7)10(9)11 12 23〔15(13 14)17(16)18 19 20 22(21)〕25(24)29〔28(26 27)〕32(30 31)]36(34 35)48[40(37 38 39)43〔42(41)〕47〔46(44 45)〕]}54〔53(50 51 52)〕〉。
と「同じく」、
⑤ 39〈35{2(1)23[4(3)6(5)8(7)15〔10(9)12(11)14(13)〕17(16)20〔19(18)〕
22(21)]25(24)34[27(26)30〔29(28)〕33〔32(31)〕]}38〔37(36)〕〉。
である。
従って、
(25)
④ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〔( )〕〉
⑤ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〔( )〕〉
といふ「一つの括弧」は、少なくとも
④ 55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42
41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
⑤ 39 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31 38 37 36。
といふ「二つの順番」を、
④ 1から55までの、「昇べき順番」に、「並び替へ(ソートす)」ることが、出来、
④ 1から39までの、「昇べき順番」に、「並び替へ(ソートす)」ることが、出来る。
(26)
「学校」で習ふ所の、
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅱ)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅳ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅴ)天 地 人
であれば、
④の場合に、「返り点」が、「足りなく」なるため、その場合は、
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅱ)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅳ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅴ)天 地 人
ではなく、「暫定的」に、
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ 元レ
(Ⅱ)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅳ)天 地 人
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)元 亨 利 貞
であると、する。
従って、
(25)(26)により、
(27)
④ 55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43
42 41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
⑤ 39 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31 38 37 36。
に対する、「返り点」は、それぞれ、
④ 貞 戊 二 一 人 レ 二 一 レ 下 二 一 レ 上レ レ レ 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 レ レ 丙レ 乙 甲  利レ 享 元
⑤ 地  丙 レ 下 レ レ レ 二 レ レ 一レ レ レ レ 上レ レ 乙 レ レ レ 甲レ レ 天レ レ
である。
cf.
55貞 
従って、
(27)により、
(28)
④ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〔( )〕〉
⑤ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〔( )〕〉
といふ「一つの括弧」は、少なくとも
④ 貞 戊 二 一 人 レ 二 一 レ 下 二 一 レ 上レ レ レ 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 レ レ 丙レ 乙 甲 

利レ 享 元
⑤ 地  丙 レ 下 レ レ レ 二 レ レ 一レ レ レ レ 上レ レ 乙 レ レ レ 甲レ レ 天レ レ
といふ「二つの返り点」に、「対応」する。
然るに、
(29)
④ 貞 戊 二 一 人 レ 二 一 レ 下 二 一 レ 上レ レ レ 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 レ レ 丙レ 乙 甲 

利レ 享 元
に於ける、
④ レ 上レ 丙レ 利レ
を、「他の返り点」に、「置き換へ」ると、
④ 貞 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲 利 享 元
といふ「返り点」に、変はる。
然るに、
(30) 
④  貞〈戊 {二(一) 人[二(一)二(一)二(一) 下〔 二(一) 二( 一) 中( 上)〕 二( 一) 三〔 二( 一)〕
 地( 天)] 二( 一) 丁[ 二( 一) 三〔 二( 一)〕 丙〔 乙( 甲)〕]} 利〔 享( 元)〕〉。
⑤ 39〈35{2(1)23[4(3)6(5)8(7)15〔10(9)12(11)14(13)〕17(16)20〔19(18)〕
22(21)]25(24)34[27(26)30〔29(28)〕33〔32(31)〕]}38〔37(36)〕〉。
従って、
(30)により、
(31)
④ 貞 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲 利 享 元
といふ「返り点」は、
⑤ 39 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31 38 37 36。
といふ「順番」を、表してゐる。
従って、
(27)(31)により、
(32)
⑤ 地  丙 レ 下 レ レ レ 二 レ レ 一レ レ レ レ 上レ レ 乙 レ レ レ 甲レ レ 天レ レ
といふ「返り点」は、
④ 貞 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲 利 享 元
といふ「返り点」に、「置き換へる」ことが、出来る。
従って、
(26)(32)により、
(33)
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ 元レ
(Ⅱ)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅳ)天 地 人
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)元 亨 利 貞
に於いて、
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅳ)天 地 人
に於いて、「不足」が生じない限り、
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ 元レ
といふ「レ点」は、「不要」である。
従って、
(34)
「学校」で習ふ所の、
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅱ)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅳ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅴ)天 地 人
といふ「返り点」であっても、
(Ⅲ)上 中 下
(Ⅴ)天 地 人
に於いて、「不足」が生じない限り、
(Ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ「レ点」は、「不要」である。
(35)
漢文の返り点の打ち方なのですが、5文字で13542の順で読めるようにするにはどうすれば良いのでしょうか?
といふ「質問」された、「ID非公開さん」は、「返り点」の学習を、「始めたばかり」なのでせう。
然るに、
(36)
「これならわかる返り点―入門から応用まで― (新典社新書)2009/1/8、古田島 洋介」を含めて、
① 1 3<4>2。
② 1 3<5>4>2。
のやうな「順番」、すなはち、
③ M<N>M-1(NとMは、正の整数)
のやうな「順番」を含む「順番」に対しては、「返り点」を、付けることが、出来ない。
といふ点に、「言及」してゐる、「書籍」は、私が知る限りは、「皆無」である。
従って、
(35)(36)により、
(37)
「返り点」の「勉強」を始めるに当っては、「どのやうな順番であっても、返り点を付けることが、出来るわけではない。」といふことを、
「一番最初に、知るべき」である

平成29年07月14日、毛利太。

宛 荻生徂徠 様。

(01)
和訓」を排除するのは、無用にいかめしくむつかしい雰囲気を作る日本語だからである。
過則勿憚改は、アヤマテバスナハチ云云ではなくして、コウ ツヱ ホン ダン カイ。である。それをそのとおりに読むのが、万事のはじまりである。当時はそれを長崎通事の仕事として意識されていたゆえに、彼はそれを「崎陽の学」と呼ぶ。しかし「崎陽の学」はまだ普及しない。二次的な方法として、アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレと、いいかめしい雰囲気を持つ訓読よみを、せめてものことに廃棄する。その代替として、平易な日本語の口語におきかえる。シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。あるいはシクジリハエンリョナクヤリナオセ。そうした俗語へのおきかえを、彼は「」と呼び、従来の訓読「和訓」の方は、「」と呼んで、両者を区別する。かくて「訓」を廃棄して「訳」を方法とすることを、「崎陽の学」すなわち中国音を知らないものは、せめてもの方法とせよ(岩波書店、日本思想大系36、荻生徂徠 、1973年、650・649頁)。
然るに、
(02)
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
であっても、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
であっても、大差はないし、
平易な日本語の口語におきかえる。といふのであれば、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「それ」は、「津軽」であれば、
シクジリソノママセバダバマイネビョン
といふ風に、言ふのかも、知れない。
cf.
面白い青森の津軽弁⑧せばだばまいねびょん
方言の意味:それじゃぁダメだよね
「せばだば」は「それじゃあ」という意味でいろんな文で使われます。例えば「せばだば○○に行こう」と使います。
「まいね」は「ダメ」、「びょん」は「だよね」です。びょんはさすがに他地方の方が聞いたらふざけているように捉えてしまいますよね。
然るに、
(03)
さうであれば、津軽の青年が、荻生徂徠に弟子入りする場合は、荻生徂徠が話す「」は、弟子である津軽の青年にとっての、「」ではない。といふことに、なる。
従って、
(04)
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「江戸弁の訳」の他に、
シクジリソノママセバダバマイネビョン
といふ「津軽弁の訳」や、その他に、「会津弁の訳」や、「大阪弁の訳」や、「鹿児島弁の訳」等が、無ければならない。
然るに、
(05)
さのやうに、「いくらでも多くの」があっても、良いのであれば、その中には、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「」があったとしても、「特に、問題」が生じるとは、思へないし、固より、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「言ひ方」が、「むつかしい雰囲気を作る日本語」である。といふのは、飽く迄も、「荻生徂徠の、主観」に過ぎない。
(06)
江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[5]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総」と述べている(ウィキペディア)。
(07)
予は十四歳の時に南総に流れ落し、二十五歳で赦されて江戸に還るまでの十三年間、田夫野老の中で暮らす毎日で、学問上の師も友も持てなかった。ただ父の篋中にあった「大学諺解」一冊、これは父の手沢本であったが、この書物を一生懸命に何度も読んだものである。すると久しくして、群書に通じるようになった(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、78頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
十四歳から、二十五歳までの間、学問上の師も友も持てなかったが、「独学」で、何度も「大学諺解」を読んだことが、荻生徂徠の学問の基礎を作った。
然るに、
(09)
学問上の師も友も持てなかった。といふのであれば、いはんや、その当時の荻生徂徠は、漢詩文を、「唐音(中国語音)」で音読することは、出来なかったことになる
然るに、
(10)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むために、意味がわからなくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(11)
訓読」の際には、「意味」が分るならば、そのときに限って、「読める」ものの、
音読」の際には、「意味」が分からなくとも、「声に出す」ことは、「可能」である。
といふことに、荻生徂徠は、気付いたこと、になる。
然るに、
(12)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)。
従って、
(12)により、
(13)
徂徠は「題言十則」のなかで、
読書不如看書(書を音読することは、書を看ることに及ばない)。
看書愈於読書(書を看ることの方が、書を音読することよりも優れてゐる)。
といふ風に、述べてゐて、尚且つ、
唯だ一双の眼は、三千世界の人に「共通」であるため、
看書(書を看る)ことに関しては、何処にゐても、「可能」である。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(14)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
看書(書を看る)ことは、読書(書を音読する)ことよりも、優れてゐるし、
看書(書を看る)ことに関しては、世界中の何処にゐても、「可能」である。
といふ風に、述べてゐた、その、荻生徂徠が、
漢文訓読法排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきであると、主張した、ことになる。
(16)
「今学者訳文ノ学ヲセント思ハバ、悉ク古ヨリ日本ニ習ヒ来ル和訓ト云フモノト字ノ反リト云フモノトヲ排除スベシ」。反り点排除するのは、中国語の原語序破壊だからである。
然るに、
(17)
例へば、
① 不〔読(書)〕。
の場合であれば、「訓読」は、
② 〔(書を)読ま〕ず。
といふ「語順」であっても、
① 書 が、読 の「補語」であるといふこと。
② 書 が、読 の「補語」であるといふこと。
に関しては、
①=② であって、
① 不 が、「不」意外の「全体」を「否定」してゐること。
② ず が、「不」意外の「全体」を「否定」してゐること。
に関しても、
①=② である。
従って、
(18)
① 不〔読(書)〕。
② 〔(書を)読ま〕ず。
に於いては、「語順」は「異なる」ものの、
① 〔 ( ) 〕。
② 〔 ( ) 〕。
といふ「構造」に関しては、「変り」が無い
然るに、
(19)

大学伝五章
(20)
しばしばとりあげられる〈語順〉の問題、元来はまっすぐに書かれた漢文返り点をつけた、転倒しながら読むのは不自然だという考え方、などは、むしろ些少なことにすぎないかもしれない。かえって、修飾や支配関係を、まったく構造を異にする日本語という言語と対比させることによって、はっきりとうかびあがらせる効用があるというべきである。
是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
そこで大学での始めの教えは、学習者が天下の物すべてについて、彼がすでに知っている理を手がかりとしてますますこれをきわめ、そしてその極点にまで到達することを求めるようにせしめる(原文では、「求めないことはいっさいないように、ぜともせしめる」)のである。
このよう複雑文章でも、返り点があることによって、簡明直截に文字のかかり方を知ることができる(平凡社、日本語の歴史2、2007年、155・156頁改)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
例へば、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」したとしても、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使。
に於ける、
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」は、「不変」であって、尚且つ、「括弧・返り点」があることによって、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のやうな「複雑な文章」でも、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
のやうに「簡明直截」に「文字のかかり方」を知ることができるが故に、「転倒しながら読む」のは不自然だという考え方、などは、むしろ「些少なことにすぎない
従って、
(16)(21)により、
(22)
反り点を排除するのは、返り点が、中国語の原語序の破壊だからである。
と言ふ、荻生徂徠は、その一方で、
反り点があるこらこそ、返り点が、中国語の原語の「構造」を保存する。
といふことには、気付いてゐない
然るに、
(23)
二(五[三〔一)〕四]
に於いて、
二( )⇒( )二
五[ ]⇒[ ]五
三〔 〕⇒〔 〕三
といふ「移動」を行ふと、
二(五[三〔一)〕四]⇒
([〔一)二〕三四]五。
然るに、
(24)
[ 〔 ( ) 〕 ]
に対して、
( [ 〔 )〕 ]
といふ「それ」は、「括弧」ではないし、
二 五 三 一 四
のやうな、
二 → 三
三 → 四
を含む「(右に戻る)それ」は、「返り点」ではない
然るに、
(25)
大学伝五章 
従って、
(24)(25)により、
(26)
端‐的看 這婆‐子的本‐事
西門慶促‐忙促‐急儧造 不
のやうな「白話(口語)」には、「括弧・返り点」を、付けることが、出来ない
従って、
(20)(21)(26)により、
(27)
荻生徂徠が排斥した、「漢文訓読法」に於ける、「漢文の構造」と「訓読の構造」は、「同じ」であって、
荻生徂徠が推奨した、「唐音直読法」に於ける、「唐話の構造」と「訓読の構造」は、「同じ」ではないものの、恐らく、
荻生徂徠は、そのことを、知る由も無い。
平成29年06月24日、毛利太。

学而優則仕(Xué ér yōu zé shì)。

(01)
すべての馬の頭は動物の頭である。
といふ「命題」は、
(x)((∃y)(馬y&頭xy)→(∃y)(動物y&頭xy))
といふ風に、「記号化」される。
然るに、
(02)
エックス、あるワイ、うまワイ、アンド、ならば、あるワイ、どうぶつワイ、アンド あたまエックスワイ。
といふ風に、読んだとしても、
(xがある馬yの頭であるならば、そのxはある動物yの頭である。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「意味」は、浮かばない。
然るに、
(03)
(xがある馬yの頭であるならば、そのxはある動物yの頭である。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
すべての馬の頭は動物の頭である(All horses' heads are animals' heads).
といふことに、他ならない。
然るに、
(04)
「述語論理」が、「左から右へ、語順の通り」には、読まれないからといって、
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろうか(勉誠出版、「訓読」論、2008年、1頁)。」といふ「批判」を、受けることはない。
(05)
Hwӕt, wē Gār-Dena in geārdagum,
þēodcyninga þrym gefrunon,
hū ðā ӕþelingas ellen fremedon.
…さて、当時の英語をご覧になって、どのような感想を持たれたでしょうか。
そもそも文字からして今の英語とは様相を異にしていますし、
現代英語に対応語を見いだすことのできる語も少ないですね。
私たちが通常知っている英語とは似ても似つかず、未知の言語のように思えたのではないでしょうか。
これが、古いドイツ語の一方言だった時代の英語の姿の一例なのですね。
(Webサイト:アーリーバードの収穫)
然るに、
(06)
「普通のイギリス人(ordinary british)」にとって「未知の言語」に等しい「言語」を、「英語」であるとするのであれば、「ドイツ語」も、「英語」である。
然るに、
(07)
「ドイツ語」は「英語」ではない。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
「古英語」は、むしろ「ドイツ語」であって、「英語」ではない。
然るに、
(09)
私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、
「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」
と言いました。彼女ほどの人が、本当に「全く分からない」のだろうか、と私はちょっと驚いたのですが、現代中国語と古文(漢文)では、かなり違いがあるのは事実です。現代中国語だけしか習っておらず、 古文(漢文)を読んだ経験がなければ、「全く分からない」ということも、ありうるかもしれません(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(05)~(09)により、
(10)
「古英語」が、「英語」ではないやうに、「漢文」は、「中国語」ではない。
(11)
例へば、
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
クンフツイキショイヨウジンシャガイジンシャ。
といふ風に、「音読」することは、「簡単」である。
然るに、
(12)
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の、
君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
といふ「補足構造」を、「把握」せずに、
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
君子不以其所以養人者害人=
君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
クンフツイキショイヨウジンシャガイジンシャ。
といふ風に、「音読」することは、「簡単」であるが、
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ風に、「訓読」することは、「簡単」ではない。
然るに、
(14)
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」が、
君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「意味」であるといふことを、「知らない」のに、
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ風に、「訓読する」ことは、出来ない。
従って、
(12)(14)により、
(15)
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の「意味」が分るならば、そのときに限って、
君子不以其所以養人者害人=
君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
といふ「漢文」は、
君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ風に、「訓読する」ことが、出来る。
然るに、
(16)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むために、意味がわからなくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
荻生徂徠が、「意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだ。」といふのは、「音読」ではなく、「訓読」のことである。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「音読」=「文字列をそのままの順で読む」。
「訓読」=「意味を把握した上で、日本語の語順で読む」。
といふ、ことになる。
然るに、
(19)
予は十四歳の時に南総に流れ落し、二十五歳で赦されて江戸に還るまでの十三年間、田夫野老の中で暮らす毎日で、学門上の師も友も持てなかった。ただ父の篋中にあった「大学諺解」一冊、これは父の手沢本であったが、この書物を一生懸命に何度も読んだものである。すると久しくして、群書に通じるようになった(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、78頁)。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
荻生徂徠は、『意味を把握した上で、日本語の語順で読む所の、「訓読」』を通して、「独学」で、「群書」に通じるようになった。
といふ、ことになる。
然るに、
(21)
ワカッランかったらどうするか。もちろん、何度もいってきたように「見る」。徹底的に「見る」。
(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984年、328頁)
従って、
(17)(20)(21)により、
(22)
例えば、
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」が、「ワカラナイ」のであれば、その場合は、
君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「見ながら、頭を捻る」ことになる。
然るに、
(23)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)。
従って、
(17)~(23)により、
(24)
荻生徂徠がいふ、
読書不如看書(書を読むは書を看るに如かず)。
といふのは、
二畳庵主人がいふ、
ワカッランかったらどうするか。もちろん、何度もいってきたように「見る」。徹底的に「見る」。
といふことに、他ならない。
然るに、
(25)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした(Webサイト:日本漢文の世界)。
(26)
専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である。といって悲しむ必要はない。なにも「外国語として理解」するということが最上の方法だとはいえないからである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。
従って、
(23)~(26)により、
(27)
荻生徂徠も、二畳庵主人も、
読書不如看書(訓読は音読より優れてゐる)。
としてゐるにも拘らず、その一方で、
荻生徂徠は、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだ。と主張し、
二畳庵主人は、中国語音で読むことは、最上の方法だとはいえない。と主張する。
従って、
(28)
荻生徂徠の、「書を読むは書を看るに如かず。といふ主張」と、「漢詩文を唐音で読むという徂来の強固な主張」は、「矛盾」する。
然るに、
(29)
ここのところ、自分の仕事の関係で現代中国語の教学や文法関係の本を紹介してきたが、古典漢語(漢文)のスタンダードをあげれば、
漢語文法論〈古代編〉 (1967年) 牛島 徳次
『漢語文法論〈古代編〉』
大修館、1967年。
漢語文法論〈中古編〉 (1971年) 牛島 徳次
『漢語文法論〈中古編〉』
大修館、1971年。
があるのだが、いかんせん、古書店の値段ではずば抜けて高い!!
両方とも「7万円台」というのは一体どうなっているのだと言いたくなる。それぞれ、品詞ごとに文の構造ごとに例文でもって解説がされているので、古典漢語を勉強する際には非常に役に立つものなのだが、一般に流布していないせいか、「漢文のよい参考書がない」という結果になってしまっている(ブログ:古代中国箚記)。
然るに、
(30)
(29)で示した、『漢語文法論〈古代編、中古編〉』の著者である、「牛島徳次 先生」は、
(31)で示すやうに、「学而優則仕(学びて優なれば、則ち仕ふ)」といふ、「返り点」さえ付かない、「極めて簡単な漢文」を、「中国語」としては、「読むこと」が、出来なかった。
(31)
学部の2年生でこの学習会に参加していた者たち二三人が、あるとき連れだってわたしの所に来、「学而優則仕」と書いた紙切れを示して、これどういう意味ですかと、たずねた。どうしたのか、と聞くと、数日前の”記録新聞”に出て来て、そのときの「注釈」を聞きながら書くことは書いたが、意味がわからないのでという。そうか、これは「論語」の中の句で、「学んでゆとりがあったら官吏になる」ということだと説明した。それから1週間か十日ぐらいたったある夜、わたしは何か所かわからない箇所があった。あとで、みんなで読み合わせ、突き合わせて解読して行くうち、わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”Xué ér yōu zé shì”ですよ!」これがわたしであり、あとで述べる「A先生」なのである。漢字で書かれた”学而優則仕”を見ると、一応”
Xué ér yōu zé shì”と発音することはする。しかし、この一句の意味は、といえば、「マナンデユウナレバスナワチツコウ」であり、「学んでゆとりが有ったら官吏になる」なのだと、思う。これはまったく「訓読」で得た知識であり、漢字で書かれたものを、目だけに頼り、日本語だけ考えたものである(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、59・60頁)。
然るに、
(32)
「学而優則仕(学びて優なれば、則ち仕ふ)。」といふ『これ以上簡単なそれが無いくらひに「簡単な漢文」』さえも読めないのであれば、さのやうな「現代中国語音読法」は、「わざわざ、苦労をして、学ぶ気」には、なれない。
平成29年06月23日、毛利太。

「漢文訓読」のメリット。

(01)
君子不困人 
従って、
(02)
於=に
不=ず
であって、尚且つ、
に=に
ず=ず
であるとする。
然るに、
(01(02)により、
(03)
① 君子不困人於阨=
① 君子不[困〔人於(阨)〕]⇔
① 君子[〔人(阨)於〕困]不=
① 君子は[〔人(阨)に〕困しめ]ず。
に於いて、
① 不[ ]⇔[ ]ず
① 困〔 〕⇔〔 〕苦しめ
① 於( )⇔( )に
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 君子不困人於阨=
① 君子不[困〔人於(阨)〕]⇔
① 君子[〔人(阨)於〕困]不=
① 君子は[〔人(阨)に〕困しめ]ず。
に於いて、
① 不=ず
① 困=苦しめ
① 於=に
の「位置」が、「漢文」と「訓読」では、「反対」になる。
然るに、
(05)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 君子不困人於阨=
① 君子不[困〔人於(阨)〕]⇔
① 君子[〔人(阨)於〕困]不=
① 君子は[〔人(阨)に〕困しめ]ず。
に於ける、
①[ 〔 ( ) 〕 ]
①[ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、
① 君子不困人於阨。⇔
① 君子は人を阨に困しめず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『補足構造』を、示してゐる。
従って、
(01)(06)により、
(07)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
に於ける、
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
といふ「括弧」は、
② 君子不以其所以養人者害人。⇔
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『補足構造』を、示してゐる。
cf.
② 其=君子
② 者=君子所以養人
② 君子は、人々を養ふ際の手段(土地)のために、人々を害するやうなことはしない。
従って、
(08)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文・訓読」に於いて、
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
といふ『補足構造』自体は、「同一」であって、「変りが無い
従って、
(01)(08)により、
(09)
② 君子不其所二‐以養 一レ人者甲レ人。
② 君子不其所三‐以養
に於ける、
② 乙 下 二 一レ 上 甲レ
② 丙 下 三 二 一 上 乙 甲
といふ「返り点」も、
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『補足構造』を、示してゐる。
然るに、
(10)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
② 君子不 以 其所 以 養 人  者 害 人  。
② 君子  其  人 養 所 以者 以 人 害 不。
といふ「漢字」自体は、「変らない」。
従って、
(08)(10)により、
(11)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)構造。
(Ⅲ)語順。
といふ「三つ」の中の、
(Ⅰ)漢字
(Ⅱ)構造
といふ「二つ」は、「保存」される。
然るに、
(12)
国語漢語と現代中国語くいちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたふつうになっているという場合である。
(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206・7頁)
然るに、
(13)
② 君子不以其所以養人者害人。⇒
③ 君子不拿用来养活人的东西害人。
(Webサイト:古诗文网)
に於いては、
③ には、果たして、
②    以其所以養者 といふ「漢字」が無く
② には、
③    拿用来养活 的东西 といふ「漢字」が無い
従って、
(13)により、
(14)
② 君子不以其所以養人者害人。⇒
③ 君子不拿用来养活人的东西害人。
といふ「漢文・中国語訳」に於いて、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)構造。
(Ⅲ)語順。
といふ「三つ」の中の、少なくとも、
(Ⅰ)漢字
に関しては、「保存」されない
然るに、
(15)
例へば、「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天」というところが、白話訳では「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、312頁改)。中国語の文語文(つまり漢文)は、漢字の表意文字たる性質を十二分に生かして、簡潔な表現になっておりますから、訓読に非常に適しています。これに対し、白話(口語)の文章は、熟語や助字が多く、冗長です。そのため訓読には不向きなのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
② 君子不以其所以養人者害人。⇒
③ 君子不拿用来养活人的东西害人。
といふ「漢文・中国語訳」に於いて、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)構造。
(Ⅲ)語順。
といふ「三つ」は、「三つ」とも「保存」されない
といふ風に、「予想」される。
然るに、
(17)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(17)により、
(18)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
であるならば、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
然るに、
(19)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984年、389頁)
従って、
(07)(17)(18)(19)により、
(20)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
に於ける、
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
といふ「括弧」は、
② 君子不以其所以養人者害人。⇔
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「漢文・訓読」に於ける、『管到(補足構造)』を、示してゐる。
然るに、
(21)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことが、「事実」であって、尚且つ、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことを、「或る人」が、「知らない」のであれば、「その人」は、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「理解」出来ない。はずである。
(22)
④ それは我々に、彼が偉大な人間であるということを、思い出させる。⇔
④ It reminds us that he is a great man(グーグル翻訳).
であるものの、「英文・訓読」は、
④ It reminds us that he is a great man.=
④ It reminds[us that〔he is(a great man)〕].⇔
④ It [us〔he (a great man)is〕 that]reminds.=
④ それは[我々に〔彼が(偉大な人間)である〕といふことを]思ひ出させる。
である。
然るに、
(23)
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
に対して、
⑤ 《〈{[〔(【『「《〈{[〔( )〕]}〉》」』】)〕]}〉》
を用ゐるならば、「英文・訓読」は、
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.=
⑤ It reminds〈us{that[while《we may〈be{a-nation[divided〔on(policies)〕]}〉》, we are〔a-country(that【stands『united「in《condemning〈hate-and-evil{in[all〔of(its very ugly forms)〕]}〉》」』】)〕]}〉.⇒
⑤ It 〈{[《we 〈{[〔(policies)on〕divided]a-nation}be〉may》while, we 〔(【『「《〈{[〔(its very ugly forms)of〕all]in}hate-and-evil〉condemning》in」united』stands】that)a-country〕are]that}us〉reminds.=
⑤ そのことは〈{[《我々が〈{[〔(政策)に於いて〕分断された]国民}である〉かのやうに思へるに》せよ, 我々が〔(【『「《〈{[〔(非常に醜い形)の〕あらゆる状態]にある}憎しみや悪を〉非難すること》に於いて」団結した』状態にある】所の)国家〕である]といふことを}我々に〉気付かせてくれる.
である。
従って、
(19)(20)(23)により、
(24)
例へば、私の場合は、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の、『管到(補足構造)』を「把握」出来ないのであれば、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「訓読」出来ない
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
といふ「英文」の、『管到(補足構造)』を「把握」出来ないのであれば、
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
といふ「英語」を、「訓読」出来ない
然るに、
(25)
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
といふ「英文」の「意味」が、「チンプンカンプン(GREEK TO ME)」であって、
⑤ イット リマインズ ミー ザット フォワイル ウィ メイ ビー ア ネーション ディバイディッド オン ポリシーズ、ウィ アー ア カントリー ザット スタンズ ユナテッド イン コンデミング ヘイト アンド イビル イン オール オブ イッツ ベリー アグリー フォームズ。
といふ風に、「読むだけ」であるならば、「極めて、簡単」である。
然るに、
(26)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
例へば、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことが、「事実」であって、尚且つ、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことを、「或る人」が、「知らない」のであれば、「その人」が、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「理解」出来ない。はずである。といふことは、
中国語」を「母語」とする者であって、「日本語」を「母語」とする者であっても、「変りが無い」。はずである。
然るに、
(28)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことは、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に、
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
といふ「補足構造」が有る。といふことに、他ならない。
平成29年06月17日、毛利太。
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Author:タカ
写真は蛍雪時代(高三)。この頃に、漢文が好きになりました。

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