返り点に対する「括弧」の用法について提案

「PならばPでない。従って、Pでない。」は「サプライズ」ではない。

(01)
23 P→~P├ ~P
23 PであるならばPでない。従って、Pでない
これは我々の規則によって証明された第一の驚くべき結果である(This is the first surprising result to be established by our rules.)。
(E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、34・35頁改)
cf.
(a)
 1 (1) P→~P A
  2(2) P     A
 12(3)   ~P     12MPP
 12(4) P&~P     23&I
 1 (5)~P        24RAA
   (6)(P→~P)→~P 15CP
(b)
 1 (1)~P        A
   (2)~P∨~P     1∨I
   (3) P→~P     含意の定義
   (4)~P→(P→~P) 13CP
 ∴ (P→~P)は(~P)に等しい。
然るに、
(02)
① PならばQでない(P→~Q)。
② Pであって、Qである。といふことはない〔~(P&Q)〕。
といふ「日本語」に於いて、
①=② である。
といふことは、「直観」として、「正しい」。
cf.
(a)
 1  (1)  P →~Q A
  2 (2)  P &  Q  A
  2 (3)  P     2&E
  2 (4)      Q 2&E
 12 (5)     ~Q 13MPP
 12 (6)  Q &~Q 45&I
 1  (7)~(P &  Q)26RAA
(b)
 1  (1)~(P &  Q)A
  2 (2)  P     A
   3(3)      Q A
  23(4)  P & Q 23&I
 123(5)~(P & Q)
       &(P & Q)15&I
 12 (6)     ~Q 35RAA
 1  (7)  P →~Q
 ∴ (P →~Q)は(~(P&Q))に等しい。
従って、
(02)により、
(03)
① PならばPでない(P→~P)。
② Pであって、Pである。といふことはない〔~(P&P)〕。
に於いても、
①=② である。
cf.
(a)
 1  (1)  P →~P A
  2 (2)  P &  P  A
  2 (3)  P     2&E
  2 (4)      P 2&E
 12 (5)     ~P 13MPP
 12 (6)  P &~P 45&I
 1  (7)~(P &  P)26RAA
 (b)
 1  (1)~(P &  P)A
  2 (2)  P     A
   3(3)      P A
  23(4)  P & P 23&I
 123(5)~(P & P)
       &(P & P)15&I
 12 (6)     ~P 35RAA
 1  (7)  P →~P
∴ (P →~P)は(~(P&P))に等しい。
然るに、
(04)
② Pであって、Pである
といふ場合に限らず、仮に、
② Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pである
としても、
Pである
であって、このことを、「巾等律・反復律」といふ。
cf.
(a)
 1(1) P&P A
 1(2) P   1&E
(b)
 1(1) P   A
 1(2) P&P 11&I
∴ (P&P)は(P)に等しい。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① PならばPでない(P→~P)。
② Pであって、Pである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
といふことは、
④ Pでない(~P)。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① PならばPでない(P→~P)。
② Pであって、Pである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(07)により、
(08)
① PならばPでない(P→~P)。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
⑤(PならばPでない。)=(Pでない。)
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(01)(09)により、
(10)
⑤(PならばPでない。)   =  (Pでない。)
⑤(PであるならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、証明された。としても、ヲカシクはない。
然るに、
(11)
⑥ PだからPでない(P├ ~P)。
といふ「言ひ方」とは異なり、
① PならばPでない(P→ ~P)。
における、
① Pなら(未然形) は、
① Pである。    とは、言ってゐない
従って、
(11)により、
(12)
⑥ PだからPでない(P├ ~P)。
といふ「言ひ方」とは異なり、
① PならばPでない(P→ ~P)。
といふ「言ひ方」は、少なくとも、「矛盾」ではない。
平成29年11月15日、毛利太。

我非必不常求以解中文法解漢文者也。

(01)
① 孔子聖人 =孔子は聖人なり(文語)。
② 孟子亜聖也=孟子は亜聖なり(文語)。
然るに、
(02)
置き字(おきじ)とは、漢文を訓読する際に、助字の中で書き下し文に反映されず読まれない字。ただし、読まれないと言っても、元になる漢文では文法上の意義があり、置き字の仄めかす文意はおおむね書き下し文にも反映される(ウィキペディア)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① AB =AはBなり(文語)。
② AB也=AはBなり(文語)。
に於いて、
②「也」は、「置き字(読まない字)」である。
然るに、
(04)
③ AB =AはBである  (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
然るに、
(05)
ヤ也 なり たり や か
[助動詞]1なり《文の末尾について、文意を強調する語気を表す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、329頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ AB =AはBである  (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
に於いて、
④「也」は、「のだ」といふ、「強調の語気」を表してゐる。
然るに、
(07)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
従って、
(03)(07)により、
(08)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
に於いて、
⑥「也(なり)」は、「置き字」ではなく、尚且つ、
⑥「也(なり)」は、「のだ」のやうな、「強調の語気」を表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ A非B。
⑥ A非B也。
に於いて、
⑤ と、
⑥ の「違ひ」は、
⑤ AはBではない(口語)。  と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 我非必不常求以解中文法解漢文者。
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
の「違ひ」は、敢へて言へば、
⑤ AはBではない(口語)。  と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
然るに、
(11)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
従って、
(11)により、
(12)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非            者
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(13)
⑥ 非必怪奇偉麗者也=
⑥ 非(必怪奇偉麗者)也⇒
⑥ (必怪奇偉麗者)非也=
⑥ (必ずしも怪奇偉麗なる者に)非ざる也(蘇武・超然台記)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必           者也
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(15)
⑥ 求以解英文法解漢文=
⑥ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]⇒
⑥ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑥ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必  求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(17)
⑥ 必不仁=
⑥ 必不(仁)⇒
⑥ 必(仁)不=
⑥ 必らずしも(仁なら)不(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「作例」に於いて、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
従って、
(10)(18)により、
(19)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
⑥ 我は必ずしも、常には、中文を解する法を以って、   漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ=
⑥ 私は、    時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者なのだ。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。

cf.
然るに、
(20)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
から、
⑥ 我  必  常      中文 法   漢文   者 也
⑥ 我 必 常   中文  法   漢文      者  也
といふ「漢字」を「取り除く」と、
⑥ ( )〕( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )( )
である。
従って、
(20)により、
(21)
⑥ ( )〕( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )( )
を「合はせる」と、
( )解( )
従って、
(21)により、
(22)
〈 〉
{ }
[ ]
〔 〕
( )
( )
である。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我〈必{常(中文)法〕(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)する法を〕て(漢文を)せんことを]め}る者に〉ざる也。
に於いて、
⑥ 〈 〉
⑥ { }
⑥ [ ]
⑥ 〔 〕
⑥ ( )
⑥ ( )
である。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
⑥   〈  {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ風に、「訓読」したとしても、
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用ゐて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
といふ風に、「直訳」したとしても、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」は、「保存」される。
然るに、
(27)


然るに、
(28)
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、「中国語」であるため、私には「全く読めない」し、
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
従って、
(25)~(28)により、
(29)
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用いて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
であれば、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の補足構造」を「保存」してゐる一方で、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、さうではない。はずである(?)。
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「(自分で書いた)漢文」が「正しいか、否か」を知りたい際に、
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ。
といふ「日本語」に対する「知識」より以上に、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」に対する「知識」が、「訳に立つ」とは、思はない。
然るに、
(31)
その一方で、

大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(32)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(33)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
然るに、
(34)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成29年11月13日、毛利太。

「マラガシ語・訓読」。

(01)
5‐a)Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
5‐b)ラソアが6 病気な5 ので4 ラベは3 幸せで2 ない1.
このように、日本語とマラガシ語では文のいろいろな構成要素の配列が全く逆の形をとって現われるが、これは、ことばの線状化の原理がこの2つの言語でちょうど逆方向に働いているからである。
(世界言語への視座―歴史言語学と言語類型論 単行本 – 2006/11/1松本 克己(著)、159頁)
従って、
(01)により、
(02)
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6 =
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
に於いて、
①      Tsy1〈 〉⇒ Tsy1
①     faly2{ }⇒ faly2
①    Rabe3[ ]⇒ Rabe3
① safria4〔 〕⇒ safria4
① marary5( )⇒ marary5
といふ「移動」を行ふと、
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6 =
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉⇒
① 〈{[(Rasoa6)marary5〕safria4]faly2}Rabe3〉Tsy1 =
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(03)
「言ひ換へ」ると、
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉
に於いて、
①「より内側の括弧の中」を先に読むと、
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1.
といふ「例文」に於いて、「マラガシ語」と「日本語」は、「語順こそ、」であるが、「構造自体は、全く同じ」である。
然るに、
(05)
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
ではなく、
② safria4(Rasoa6 marary5)Rabe3 Tsy1(faly2).
に於いて、
② safria4( )⇒ safria4
②    Tsy1( )⇒ Tsy1
といふ「移動」を行ふと、
② safria4 Rasoa6 marary5 Rabe3 Tsy1 faly2 =
② safria4(Rasoa6 marary5)Rabe3 Tsy1(faly2)⇒
② (Rasoa6 marary5)safria4 Rabe3(faly2)Tsy1=   
② (ラソアが6 病気な5)ので4ラベは3(幸せで2)ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
「主語‐述語の、語順」は、「日本語と共通」であるが、
「主語‐述語の、語順」以外は「日本語と」であるといふ「言語」が、有るとしても、
「括弧」を用ゐて、その「言語」を「訓読」することは、「可能」である。
然るに、
(07)
③ marary5 safria4 Rasoa6 =
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕.
に於いて、
③ marary5( )⇒ marary5
③ safria4〔 〕⇒ safria4
といふ「移動」を行ふと、
③ marary5 safria4 Rasoa6 =
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕⇒
③ (〔Rasoa6)marary5〕safria4=
③ (〔ラソアが6)病気な5〕ので4。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
然るに、
(08)
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕.
に於ける、
③ 5(4〔6)〕.
といふ「括弧」、すなはち、
③  (  )
といふ「それ」は、
③    ( )
ではないが故に、実際には、「括弧」ではない
従って、
(02)(08)により、
(09)
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
に対して、
③ Tsy1 faly2 Rabe3 marary5 safria4 Rasoa6.
といふ「非マラガシ語」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない
加へて、
(10)
④ Who are you?=
④ Who(are〔you)〕?⇒
④ (〔you)Who〕are?=
④ (〔あなた)誰〕ですか。
に於いて、
④  (  )〕
といふ「それ」は、
④    ( )〕
ではないが故に、「括弧」ではないし、
(11)
⑤ What are you doing now?=
⑤ What(are[you doing〔now)〕]?⇒
⑤ ([you 〔now)What〕doing]are?=
⑤ ([あなたは〔今)何を〕して]ゐますか。
に於いて、
⑤ ( [ 〔 )〕]
といふ「それ」は。
[ 〔 ( )〕]
ではないが故に、「括弧」ではない
従って、
(10)(11)により、
(12)
例へば、
④ Who are you ?
⑤ What are you doing now?
といふ「英語」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない
cf.
WH移動(生成文法)。
然るに、
(13)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(13)により、
(14)
括弧」を用ゐて、「補足構造だけを、「漢文の語順」と「」にするならば、その場合の「漢字の配列」は、「日本語の語順」と「等しい」。
といふ、ことになる。
然るに、
(15)
⑤ 我非必 
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也=
⑥ 私は必ずしも、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとしない者ではない
⑥ 私は、時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、する者である
に於ける、
⑥   〈  {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
従って、
(15)(16)により、
(17)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非必不常求中文漢文也。
に於ける、
⑥ 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」も、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」を表してゐる。
然るに、
(18)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】には、「補足構造」といふ「言葉」が無く、それ故、【定義】としては、「一面的」であって、「十分」ではない。
従って、
(19)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の「補足構造」を表すと同時に、古典中国語の語順を日本語の語順に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
従って、
(19)により、
(20)
例へば、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」を、
⑦ Chǔ rén yǒu yù dùn yǔ máo zhě. Yù zhī yuē, wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě. Yòu yù qí máo yuē, wú máo zhī lì, yú wù wú bù xiàn yě. Huò yuē, yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn hérú. Qí rén fú néng yīng yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、
⑦ 楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥す莫きなり、と。また其の矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無なし、と。或るひと曰く、子の矛を以もって、子の楯を陥さば何如、と。其の人応ふる能はざるなり。
といふ風に、「訓読」しようと、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」には、
⑦ 楚人有〔鬻(楯與矛)者〕。譽(之)曰、吾楯之堅、莫〔能(陷)〕也。又譽(其矛)曰、吾矛之利、於(物)無〔不(陷)〕也。或曰、以(子之矛)、陷(子之楯)何如。其人弗能弗〔能(應)〕也。
といふ「補足構造」が有る。といふことには、「変り」が無い
従って、
(20)により、
(21)
⑦ 楚人有[鬻〔楯與(矛)〕者]。譽(之)曰、吾楯之堅、莫〔能(陷)〕也。又譽(其矛)曰、吾矛之利、於(物)無〔不(陷)〕也。或曰、以(子之矛)、陷(子之楯)何如。其人弗能弗〔能(應)〕也。
といふ「補足構造」を、「把握」しない限り、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」を、
⑦ 楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥す莫きなり、と。また其の矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無なし、と。或るひと曰く、子の矛を以もって、子の楯を陥さば何如、と。其の人応ふる能はざるなり。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない。
然るに、
(22)
チュの人々は誰を馬鹿にして槍を投げる。言った、私はケネディの強い、Moの評判は沈むことができます。また、槍として知られている、私は利点の槍、すべてにも陥ると述べた。または、子供の槍で、</ s>の崩壊はどうですか?その人はまたできるはずです(グーグル翻訳)。
といふ「それ」は、「意味不明」である。
従って、
(20)(22)により、
(23)
「グーグルのAI」は、「中国語」は知ってゐても、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
のやうな「漢文」に対する「知識(データ)」が無いため、
⑦ Chǔ rén yǒu yù dùn yǔ máo zhě. Yù zhī yuē, wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě. Yòu yù qí máo yuē, wú máo zhī lì, yú wù wú bù xiàn yě. Huò yuē, yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn hérú. Qí rén fú néng yīng yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」は出来ても、その「意味」を、「理解すること」は、出来ない。
従って、
(23)により、
(24)
少なくとも、「グーグルのAI」にとって、「中国語の知識」は、「漢文を読む」上で、「役に立たない」。
従って、
(25)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語ヲ通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
といふ「見解」は、すなはち、「マチガイ」である。
(26)
5‐b)ラソアが6 病気な5 ので4 ラベは3 幸せで2 ない1.
5‐a)Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
のやうに、「語順」自体は、「真逆」であるが、
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1.
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
のやうに、「構造」自体は、「同一」な「言語」が有ることを、知るべきである。
平成29年11月11日、毛利太。

「(ある参考書の)誤訳」について。

(01)
① 欲為姉煮粥=
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕⇒
① 〔数(姉)為(粥)煮〕欲=
① 〔数々(姉の)為に(粥を)煮んと〕欲す=
① しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(小学)。
然るに、
(02)
① 欲〔為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
① 数=しばしば
といふ「副詞」は、
① 欲=Want
ではなく、
①「名詞節」の中の、
① 為姉
といふ「副詞句」を「修飾」してゐる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 欲〔為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
① しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(小学)。
に於ける、
①「欲す」の「回数」は、「数回」ではなく、「回」である。
然るに、
(04)
欲為姉煮粥=
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕⇒
② 数〔(姉)為(粥)煮〕欲=
② 数々〔(姉の)為に(粥を)煮んと〕欲す=
② しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(作例)。
然るに、
(05)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
の場合は、
② 数=しばしば
といふ「副詞」は、
② 欲=Want
といふ「他動詞」を「修飾」してゐる。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
② しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(作例)。
に於ける、
②「欲す」の「回数」は、「一回」ではなく、「回」である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 欲〔為(姉)煮(粥)〕。
欲〔為(姉)煮(粥)〕。
といふ「漢文」に対する、
① しばしば姉の為に粥を煮んと欲す。
② しばしば姉の為に粥を煮んと欲す。
といふ「訓読」からは、
①「欲す」の「回数」が、「回」なのか、
②「欲す」の「回数」が、「回」なのが、「分からない」。
従って、
(07)により、
(08)
④ 請(出自致)。
請(出自致)。
といふ「漢文」に対する、
に対する、
③ しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
④ しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
といふ「訓読」からも、
③「請ふ」の「回数」が、「回」なのか、
④「請ふ」の「回数」が、「回」なのかが、「分からない」。
然るに、
(09)
(A)常不油 (全部否定)
(B)不常得一レ油(部分否定)
この例は次のように下から返読してその意味をはっきりさせることができる。
(A)常油(油ヲ得ザルコト常ナリ)
(B)不油(油ヲ得ルコト常ナラズ)
(原田種成、私の漢文講義、1995年、156頁)
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
④ 数請(出自致)。
であれば、
② 数[欲〔為(姉)煮(粥)〕]。
④ 数〔請(出自致)〕。
とすることによって、
② 姉の為に粥を煮んと、欲すること、しばしばなり
④ 出でて自ら致さんと、請ふこと、 しばしばなり
といふ風に、「読む」ことが出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「訓読」は、
しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
④ 出でて自ら致さんと、請ふことしばしばなり
である。
然るに、
(12)
⑤ 数出請自致=
⑤ 数出請(自致)⇒
⑤ 数出(自致)請=
⑤ しばしば出でて(自ら致さんと)請ふ。
従って、
(11)(12)により、
(13)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出請(自致)。
に対する「訓読」は、
③(しばしば出でて自ら致さんこと)を請ふ。
④(出でて自ら致さん)と請ふことしばしばなり
しばしば出でて(自ら致さん)と請ふ。
である。
従って、
(13)により、
(14)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出請(自致)。
対する「口語」は、
③(何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④(外に出て自分でやりたい)と、何度頼んだ。
⑤ 何度外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ、ことになる。
然るに、
(15)
③(何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④(外に出て自分でやりたい)と、何度頼んだ。
と言ふ、のであれば、
③「その時点で、一度も外に出てはゐない。」としても、「矛盾」はしないし、
④「その時点で、一度も外に出てはゐない。」としても、「矛盾」はしない。
然るに、
(16)
何度も、(外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
と言ふ、のであれば、この場合も、
⑥「その時点で、一度も外に出てはゐない。」としても、「矛盾」はしない。
然るに、
(17)
何度も、(外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
と言ふ、のではなく、
何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
と言ふ、のであれば、
⑤「その時点で、何度も外に出て頼んではゐる。」といふ、ことになる。
従って、
(14)~(17)により、
(18)
⑤ 数出請(自致)。
といふ「漢文」は、
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ「意味」であって、
⑥ 何度も、(外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
といふ「意味」ではない
然るに、
(19)
何度も、(外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
であれば、
④ (外に出て自分でやりたい)と、何度も頼んだ。
といふことと、「同じ」である。
従って、
(14)(18)(19)により、
(20)
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出請(自致)。
に対する「口語」は、それぞれ、
何度も、(外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ、ことになる。
従って、
(20)により、
(21)
④ 数請出自致。
⑤ 数出請自致。
に対する「和訳」は、それぞれ、
何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
といふ、ことになる。
従って、
(22)
④ 数請出自致、輒不許(宋史列伝)。
に対する「和訳」は、
何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだが、そのたびごとに許さなかった。
であって、
何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだが、そのたびごとに許さなかった。
ではない。
然るに、
(23)
[訳]何度も外に出て自分でやりたいと頼んだが、そのたびごとに許さなかった(教学社、風呂で覚える漢文、1998年、97頁)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
[訳]何度も外に出て自分でやりたいと頼んだが、
ではなく
[訳]何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだが、
ではなく
[訳]何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだが、
でなければ、ならない。
cf.
キンタマケルナ。キンタマ、ケルナ。キンケルナ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、80頁)。
平成29年11月09日、毛利太。

「(自然演繹の)仮定の解消」は「理解しやすい」。

(01)
①{P→Q,~Q} ~P
②{P→Q} ~Q→~P
といふ「それ(sequent)」は、
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
といふ「意味」である。
従って、
(02)
 P=南半球である。
~P=南半球でない。
 Q=12月は夏である。
~Q=12月は冬である。
とするならば、
①{P→Q,~Q}├ ~P
②{P→Q}├ ~Q→~P
といふ「それ」は、それぞれ、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(03)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、(東京は)南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、(東京は)南半球ではない。
に於いて、
① が「本当」であって、
② が「ウソ」である。といふことは、「あり得ない」。
従って、
(03)により、
(04)
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ「推論」が、「妥当」であることを、「証明」したいのであれば、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
といふ「推論」が、「妥当」であることを、「証明」すれば、「十分」である。
然るに、
(05)
①{P→Q,~Q ~P
②{P→Q} ~Q→~P
に於いて、
①{P→Q,~Q}は、「仮定集合」であって、
②{P→Q}   は、「仮定集合」である。
従って、
(02)(05)により、
(06)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
に於いて、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}は、「仮定集合」であって、
②{南半球ならば、12月は夏である。}          は、「仮定集合」である。
従って、
(04)(06)により、
(07)
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ「推論」が、「妥当」であることを、「証明」したいのであれば、
②{南半球ならば、12月は夏である。}といふ「仮定集合」に、「最初に」、
①                 {12月は冬である。}といふ「仮定を加へて
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}といふ「仮定集合」とし、その上で、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}といふ「仮定集合」を用ゐて、
①                            「従って、南半球ではない。」といふ「結論を導けば良い
といふ、ことになる。
cf.
  1  (1) P→Q  A(仮定)
    (2)~Q    A(仮定)
    3(3) P    A(仮定)
  1 3(4)   Q  13MPP
  123(5)~Q&Q  24&I
① 1 (6)~P    35RAA
② 1  (7)~Q→~P 26CP
従って、
(07)により、
(08)
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ「推論」が、「妥当」であることを、「証明」したいのであれば、
②{南半球ならば、12月は夏である。}といふ「仮定集合」に、
①                 {12月は冬である。}といふ「仮定」を、「加へ」て、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}といふ「仮定集合」とし、その後で、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}といふ「仮定」から、
①                 {12月は冬である。}といふ「仮定」を、「解消」することになる。
然るに、
(09)
困難さの第二の理由は、自然演繹には「仮定の解消」(最初に仮定しておいて、あとでなかったことにする)という手続きがあり、それがなかなか理解しづらいことです(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)。」といふ風に、小島先生は、述べてゐて、尚且つ、確かに、(08)は、「幾分、ややこしい」。
然るに、
(10)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
に於いて、
① が「本当」であって、
② が「ウソ」である。
といふことは、「あり得ない」が故に、
② を「証明」したければ、
① を「証明」すれば良い。
といふ、「単純な理屈」が、要するに、「仮定の解消」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「なかなか理解しづらい」とされてゐる、「仮定の解消」であっても、「さ程、理解しくい」とは、思へない。
然るに、
(12)
自然演繹は、「仮定の解消」のおかげで公理なしに演繹システムとなり得ており、その意味で「仮定の解消」は自然演繹の本質だと言っても過言ではありません。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)
従って、
(11)(12)により、
(13)
「自然演繹の本質(仮定の解消)」は、それなりに、「理解しやすい」と、すべきである。
(14)
③ P
④ P
は、それぞれ、
③ Pである。故に、Pである。
④ Pであるならば、Pである。
といふ、「意味」である。
従って、
(15)
③ P├ P
であれば、
③ Pである。ことは、「定」であるが、
④ P→ P
であれば、
④ Pである。ことは、「定」である。
然るに、
(16)
1 (1)   P→P        A
 2(2)   P          A
12(3)     P        12MPP
1 (4)   P→P        23CP
  (5)  (P→P)→(P→P) 14CP
  (6) ~(P→P)∨(P→P) 含意の定義
  (7)~(~P∨P)∨(~P∨P)含意の定義
  (8) (P&~P)∨(~P∨P)ド・モルガンの法則
然るに、
(17)
④ (P&~P)∨(~P∨P)
に於いて、
④ (P&P)=Pであって、Pでない
は、「矛盾」である。
従って、
(18)
④ (P&~P)∨(~P∨P)
であれば、
④ ~P∨P=Pでないか、Pである(排中律)。
が、「真(本当)」である。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
④ PならばPである。ならば、PならばPである。
といふ「同一律」が、「常に真」であるからと言って、
④ Pでないか、Pである。
といふ「排中律」も、「常に真」であるが故に、
④ PならばPである。
に於いて、
④ Pである。
とは限らない。といふことは、「当然」である。
平成29年11月06日、毛利太。
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写真は蛍雪時代(高三)。この頃に、漢文が好きになりました。

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