返り点に対する「括弧」の用法について提案

日本語の教師の方、教へて下さい。

(01)
よく「日本語には主語が2つある」と言われます。簡単に言ってしまうと、主語を表す形には「は」と「が」あるということです。こう言うと反論を述べる人が必ず出ると思います。日本語では「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語はないのです。
(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)
従って、
(01)により、
(02)
「は」と「が」は、一方は「主題」、一方は「主格」といふ風に、同じ「範疇」ではないので、二つを「比較」しても「無意味」である。
然るに、
(03)
① AはBである。
② BはAである。
は、「二つ」とも、「~は」である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① AはBである。
② BはAである。
であれば、「比較」をしても、「無意味」ではない。
然るに、
(05)
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(05)により、
(06)
「対偶は、その真理値が等しい。」が故に、
② BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(07)
③ 中野が東京である。
④ 中野以外は東京ではない。
に於いて、
③ は、「ウソ」であって、
④ も、「ウソ」である。
(08)
③ 東京が日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない。
に於いて、
③ は、「本当」であって、
④ も、「本当」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(06)(09)により、
(10)
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(11)
② BはAである。
③ AがBである。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(04)(11)により、
(12)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
に於いて、
① と ② であれば、「比較」しても「無意味」ではなく、
② とは、すなはち、③ である。
従って、
(13)
① AはBである。
② BはAである。
に於いて、
① と ② の場合は、二つを、「比較」しても「無意味」ではないのであれば、
① AはBである。
③ AがBである。
に於いて、
① と ③ の場合に、二つを、「比較」しても「無意味」である。とするのは、「ヲカシイ」。
(14)
⑤ 空の名残のみ惜しき(徒然草)。
⑥ 空の名残だけ惜しい(口語訳)。
に於いて、
⑤=⑥ である。
然るに、
(15)
⑤ 空の(格助詞)名残のみ(副助詞)ぞ(係助詞)惜しき。
⑥ 空の(格助詞)名残だけ(副助詞)が(   )惜しい。
に於いて、
⑤=⑥ である。ならば、当然、両方とも、
⑤ ぞ(係助詞)惜しき。
⑥ が(係助詞)惜しい。
である。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ Aが(係助詞)Bである。
でなければ、ならない。
然るに、
(17)
① Aは(係助詞)Bである。
といふことは、「常識」である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① Aは(係助詞)Bである。
③ Aが(係助詞)Bである。
でなければ、ならない。
然るに、
(18)により、
(19)
両方とも、
① Aは(係助詞) であって、
③ Aが(係助詞) である。にもかかはらず、
① Aは(係助詞)Bである。
③ Aが(係助詞)Bである。
に於いて、
① と ③ の場合も、「比較」しても「無意味」である。とするのは、「ヲカシイ」。
のでは、ないでせうか(質問Ⅰ)。
(20)
⑤ 象は鼻長い。
といふ「日本語」は、
⑤ その動物が象ならば、その動物の鼻は長く、その動物の鼻以外の部分は長くない。
といふ「意味」である。
従って、
(21)
⑤ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、「述語論理」で表せば、
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(22)
1   (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1   (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3  (3)∀x(象x)                         A
 3  (4)   象a                          3UE
13  (5)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  24MPP
13  (6)      ∃y(鼻yx&長y)               5&E
13  (7)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  5&E
13  (8)                    ~鼻bx→~長b   7UE
  9 (9)                          長b   A
   ア(ア)                    ~鼻bx       A
139ア(イ)                         ~長b   8アMPP
139ア(ウ)                    ~長b&長b     9イ&I
139 (エ)                   ~~鼻bx       アウRAA
139 (オ)                     鼻bx       エDN
13  (カ)                     長b→鼻bx    9オCP
13  (キ)                  ∃z(長z→鼻zx)   EIカ
13  (ク)      ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx)   6キ&I
13  (ケ)∃x(象x)                         3EI
13  (コ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   クケ&I
然るに、
(23)
⑤ ∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)。
とふ「論理式」は、「直訳」すれば、
⑤ 或るxは象であって、或るyはxの鼻であって、yは長く、或るzが長いならば、そのzはxの鼻である。
といふ「日本語」になる。
然るに、
(24)
⑤ 或るxは象であって、或るyはxの鼻であって、yは長く、或るzが長いならば、そのzはxの鼻である。
といふことは、要する、
⑤ 鼻の長い象xが存在する。
といふ「意味」である。
従って、
(21)(24)により、
(25)
1   (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1   (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3  (3)∀x(象x)                         A
13  (コ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   クケ&I
といふ「述語計算」は、
⑤ 象は鼻が長い。ならば、
⑤ 象が存在する。ならば、
⑤ 鼻の長い象が存在する。
といふ、「極めて、当然なこと」を、「証明」してゐる。
然るに、
(26)
⑤ 象は鼻が長い。
⑤ 鼻の長い象が存在する。
といふ「日本語」を、
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ ∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)。
といふ「翻訳」は、誰であっても、初めから「出来る」わけではない。
然るに、
(27)
日常言語の文から述語計算の文への翻訳のためには、一般にあたまが柔軟なことが必要である。なんら確定的な規則があるわけではなく、量記号に十分に馴れるまでは、練習を積むことが必要である。そこに含まれている仕事は翻訳の仕事に違いないけれども、しかしそこへの翻訳が行われる形式言語は、自然言語のシンタックスとは幾らか違ったシンタックス(a rather different syntax)をもっており、また限られた述語〔論理的結合記号、変数、固有名、述語文字、および2つの量記号〕しかもたない(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英、1973年、130頁)。
の原文は「英語」である。
従って、
(26)(27)により、
(28)
⑤ 象は鼻が長い。
⑤ 鼻の長い象が存在する。
といふ「日本語」に「対応」する、
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ ∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)。
といふ「述語論理」、すなはち、
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
⑤ 或るxは象であって、或るyはxの鼻であって、yは長く、或るzが長いならば、そのzはxの鼻である。
といふ「述語論理」は、「英語」といふ「自然言語」とは、「別の言語」である。
然るに、
(29)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
といえばいいかもしれない(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
従って、
(29)により、
(30)
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「日本語・述語論理」には、少なくとも、
⑤ x=象
⑤ y=象の鼻
といふ、少なくとも、「二つの主語」が有ることになる。
然るに、
(31)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ  鼻ガ 長イ。
総主語 主語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
従って、
(30)(31)により、
(32)
⑤ x=象(総主語)
⑤ y=象の鼻(主語)
である。
従って、
(30)(32)により、
(33)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「日本語」の「理解」は、
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ Elephants have long trunks.
といふ「それ」ではなく、
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」と、「軌を一にする」。といふ風に、言ふことが出来る。
然るに、
(34)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「日本語」の「理解」が、
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」に「由来」する。といふ「話」は、聞いたことも、読んだこともない。
従って、
(34)により、
(35)
少なくとも、
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「日本語」の「理解」に関しては、
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
といふ「主張」は、成り立たないと、すべきである(質問Ⅱ)。
(36)
③ ぼくはウナギだ。
③ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語」は、
③(ここにゐる数人中で)ぼくに関して言へば、ウナギが欲しく、ウナギ以外は欲しくない。
③ サンマに関して言へば、目黒のそれはうまく、目黒以外(日本橋魚河岸)のそれはうまくない。
といふ「意味」である。
従って、
(30)(36)により、
(37)
③ 象は鼻が長い。
③ ぼくはウナギだ。
③ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語」は、
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、あるyは鰻であって、xはyが欲しく、全てのzについて、zが鰻でないならば、xはzを欲しくない。
③ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、yはうまく、全てのzについて、zが目黒のxでないならば、zはうまくない。
であるため、「三つ」とも、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
③ ∀x{僕x→∃y(鰻y&欲xy)&∀z(~鰻z→~欲xz)}。
③ ∀x{サンマx→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)}。
といふ風に、書くことが出来る。
従って、
(37)により、
(38)
「述語論理」といふ「観点」からすれば、
③ 象は鼻が長い。
③ ぼくはウナギだ。
③ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語のシンタックス」は、「三つとも、等しい」。
然るに、
(39)
① こんにゃくは太らない。
の場合は、
① 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、或るyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
であるため、
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
といふ風に、書くことになる。
従って、
(39)により、
(40)
① そのやうな「蒟蒻x」が存在するならば、
① こんにゃくxを食べて、太らない人yが、存在する。
然るに、
(41)
英語でこんにゃく文に対応するのは、(As)for "Kon'nyaku",we do not get fat. であって、"Kon'nyaku" does not get fat. ではない。やはりここでも文が切れているからこそ、日英語とも正しく理解できるのである(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、85頁)。
然るに、
(42)
① 全てのxについて、xが蒟蒻ならば、
③ 全てのxについて、xが象ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
③ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「決まり文句」、すなはち、
全てのxについて、xが何々ならば、
といふ「日本語」は、「グーグル翻訳」によれば、
As for all x if x is "何々" then,
といふ「英語」に、訳すことが、できる。
従って、
(37)(39)(42)により、
(43)
① こんにゃくは、
③ 象は、
③ ぼくは、
③ サンマは、
といふ「日本語」は、「述語論理」といふ「観点」からすれば、
① 全てのxについて、xが何々ならば、
① As for all x if x is "何々" then,
従って、
(01)(43)により、
(44)
日本語では「は」は主題という(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)。
といふのは、「述語論理」に於ける、
① 全てのxについて、xが何々ならば、
① As for all x if x is "何々" then,
といふ、「決まり文句」に、関係してゐると、思はれるものの、果たして、さう、言へるのでせうか(質問Ⅲ)。
平成30年02月25日、毛利太。

金谷武洋先生を初めとする、日本語の教師の方たちに、「これだけは、知って欲しい」こと。

(01)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことについては、(40)~(53)で「説明」します。
(02)
③ 今独臣有船=
③ 今、独り臣のみ船有り=
③ 今、一人、私のみ船を持ってゐる(史記)。
然るに、
(03)
③ 私だけ船を持ってゐる=
③ 私は船を持ってゐて(私以外は船を持ってゐない)。
のやうな「命題」を、「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
然るに、
(04)
(a)ただ空の名残のみ惜しき=
(b)四季おりおりの空の美しさだけ捨てがたい(徒然草)。
cf.
なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
なにがしとかいった世捨て人が、「現世で人の心を引きつけ自由を束縛するものは何も持っていない身にも、ただ四季おりおりの空の美しさだけ捨てがたい」と言ったのは、まったくそのように思われるにちがいない。
(三省堂、新明解古典シリーズ10 徒然草、1990年、49頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
(a)ただ空の名残のみ惜しき(文語)。
(b)だた空の名残だけ捨てがたい(口語)。
に於いて、
(a)は、「排他的命題」であって、
(b)も、「排他的命題」であって、
(a)=(b) である。
然るに、
(05)により、
(06)
(a)のみぞ(文語)。
(b)だけが(口語)。
に於いて、
(a)=(b) である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
(a)のみ(口語)。
(b)だけ(口語)。
に於いて、
(a)=(b) である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
(a)ぞ(文語)。
(b)が(口語)。
に於いて、
(a)=(b) である。
然るに、
(09)
(a)(文語) は、「音」であって、
(b)(口語) も、「音」である。
然るに、
(10)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
(a)(文語) は、「音による、強調形」であって、
(b)(口語) も、「音による、強調形」である。
然るに、
(13)
(係助詞)
①(ア)主語の強調  ・・・
(イ)目的語の強調 ・・・を。
(旺文社、全訳学習古語辞典、2006年、463頁)
従って、
(13)により、
(14)
いづれにせよ、
(a)名残(係助詞) は、「強調形」である。
従って、
(05)(12)(14)により、
(15)
(a)ただ空の名残のみ惜しき(文語)。
(b)だた空の名残だけ捨てがたい(口語)。
に於いて、
(a)は、「排他的命題」であって、
(b)も、「排他的命題」であって、
(a)(文語) は、「音による、強調形」であって、
(b)(口語) も、「音による、強調形」であって、
(a)=(b) である。
従って、
(15)により、
(16)
(a)ただ空の名残のみ惜しき(文語)。
(b)だた空の名残だけ捨てがたい(口語)。
といふ「日本語」が、さうであるやうに、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(17)
(c)金谷武洋先生を初めとする、日本語の教師の方たちには、これだけ( )知って欲しい。
と言ふ場合は、
(c)これだけ()知って欲しい。
と言ふのであって、
(d)これだけ()知って欲しい。
とは、絶対に、言はない。
すなはち、
(18)
(c)少なくとも、これだけ()知って欲しい。
といふ「日本語」は、
(c)これを知ってもらへるならば、これ以外は「知ってもらっても、知ってもらへなくとも、どちらでも良い」。
といふ「意味」であって、そのやうな場合には、
(d)これだけ()知って欲しい。
とは、絶対に、言はない
然るに、
(01)により、
(19)
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ず、
③=④ であるため、
(d)これだけ()知って欲しい。
といふのであれば、
(d)これ以外は、知って欲しくない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(20)
(c)これ以外も「知られても良い。」
(d)これ以外は「知って欲しくない。」
に於いて、
(c)と(d)は、「矛盾」する。
従って、
(17)~(20)により、
(21)
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ず、
③=④ である以上、
(c)これだけ()知って欲しい。
といふ「日本語」を、
(d)これだけ()知って欲しい。
とは、言へないのは、「当然」である。
然るに、
(01)
(22)
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ず、
③=④ であるため、
(e)これだけ()残念だ。
であれば、
(e)これ以外は残念ではない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(23)
(e)これだけ()残念だ。
といふ「日本語」は、実際に
(e)これ以外は残念ではない
といふ、「意味」である。
従って、
(01)(21)(22)(23)により、
(24)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。が故に、
(c)これだけ(は)知って欲しい。
(e)これだけ()残念だ。
であって、
(c)これだけ()知って欲しい。
(e)これだけ(は)残念だ。
ではない。といふ、ことになる。
加へて、
(25)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。といふことを、「公理(Axiom)」とするならば、
例へば、
① これいいです(他のを見せて下さい)。
② 良いのこれです(これを下さい)。
③ これいいです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(ので、これを下さい)。
③ サンマは目黒うまい(目黒に限る)。
④ サンマは目黒以外(日本橋の魚河岸)はうまくない
① お爺さん山に芝刈に行きました。
③ お爺さんではなくお婆さん山に芝刈に行きました。
③ 象は鼻長い(象は、鼻以外は長くない)。
等々の、「~は・~が」を、「説明」出来る。
然るに、
(26)
よく「日本語には主語が2つある」と言われます。簡単に言ってしまうと、主語を表す形には「は」と「が」あるということです。こう言つと反論を述べる人が必ず出ると思います。日本語では「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語ないのです(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)。
従って、
(25)(26)により、
(27)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことが、「大切」なのであって、『「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語はないのです。』といふことは、どうでも良いと、すべきである。
然るに、
(28)
主語廃止論」を欠いた「文法」を三上文法と呼んではいけない。困るのは、ありもしない主語を主張し、神学論争に明け暮れる上空の学界/学会ではない。いまだ母国語のまともな文法を知らない日本人、とりわけ子供たちである。また、私の場合は日本語教室という「地に足のついた」現場であり、そこにいる何百人もの教え子たちなのだ。「地に足のついた」現場に要るのは「土着」の文法であることは言うまでもない(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、235頁)。
然るに、
(29)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
これはいいです。(用)
これいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型意義になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
三上先生は、
これはいいです。(不用)
これいいです。(入用)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
といふことは、知ってゐても
① これは良いです。
良いのはこれです。
③ これ良いです。
④ これ以外は良くない
に於いても、必ずしも。
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことには、気付いてゐない
従って、
(24)(25)(28)(30)により、
(31)
金谷先生が、「金科玉条」とする「三上文法」は
① これだけ知って欲しい。
③ これだけ残念だ。
① これいいです(他のを見せて下さい)。
② 良いのこれです(これを下さい)。
③ これいいです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(ので、これを下さい)。
③ サンマは目黒うまい(目黒に限る)。
④ サンマは目黒以外(日本橋の魚河岸)はうまくない
① お爺さん山に芝刈に行きました。
お爺さんではなくお婆さん山に芝刈に行きました。
③ 象は鼻長い(象は、鼻以外は長くない)。
等々に於ける「~は・~が」の「使ひ分け」を、説明できない
然るに、
(32)
どうやら私もまた「黙殺」されるという点で、三上の後塵を拝する栄誉に与りそうである。『主語はいらない』では大野晋、久野暲と柴谷方良、『謎を解く』では町田健の主語擁護論をかなりの頁を割いて批判したが、これまで反応らしきものは聞こえてこない。書評はいくつもでて、ほとんど好意的なものだったが、私が批判した文法家たちは揃ってだんまりを決め込んでいる様子だ(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、215頁)。
然るに、
(33)
金谷武洋公式ブログ
https://shugohairanai.com/
2017/12/29 - 「日本語に主語はいらない」「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」の著者である金谷武洋(たっきー)の公式ブログです。たっきーのファンであるちえ蔵が、たっきーから原稿を受け取って管理しています。
(34)
お問い合わせ
2017/9/14 2017/12/29
質問、感想など、何でもお気軽にご連絡ください。
また、金谷先生と直接連絡を取りたい場合は、その旨お知らせください。金谷先生のEメールに転送いたします。
(35)
『どうやら私もまた「黙殺」されるという点で、三上の後塵を拝する栄誉に与りそうである。』といふに述べてゐる、その、金谷武洋先のEメールに、「この記事の要約」を転送してもらって、金谷先生に、「この記事のURL( )」を知らせて、「この記事」に目を通してもらへたとして、金谷先生から、「一言」くらひ、私に対して、「反論」が有るだらうかと思った時、「思へらく、そのやうなことは、ほぼ、100%期待できない」のが「普通」であるし、「一言の反論」も無いのであれば、「詰まらない」。
(36)
教え子の心意気が涙がでるほどうれしかった。まるで『二十四の瞳』の大石先生ではないか。おまけにこっちはその二倍だ。「二十四の心」か「四十八の瞳」か、― 中略 ― 現在モントリオール大学で日本語を教えているのは、あの雪の感動と、この署名運動が原点である。住まいをモントリオールに移した今でも、当時の教え子数人と付き合いがあり、日本食を一緒にすることがある(金谷武洋、主語を抹殺した男、2006年、34・35頁)。
従って、
(37)
金谷先生は「かなりの、良き人」には、違ひないとしても、そのやうな「良き人」であっても、「三上・金谷理論」といふ「自説」が、全くの素人によって、「否定」される以上、「一言」くらひ、「素人の私」に対して、「反論」が有るだらうかと思った時、「そのやうなことは、ほとんど期待できない」とするのが「(大人の)常識」である。
それ故、
(38)

とは言へ、次のやうな、「メッセージ本文」しか、書けないことになる。

それ故、
(39)
いつの日か、カナダにゐる、金谷武洋先生の、何百人の、教え子の方たち中の、どなたかに「この記事」が目にとまり、「この記事」に書かれてゐることは、ウソである。といふことを、金谷先生に、確認しようとする方が、現はれるやうことが無い限り、「私の、自説」が、金谷武洋先生によって、「確認」されことは、諦めるしかない。
然るに、
(40)
中野は東京である。
東京は日本である。
∴ 中野は日本である。
といふ「推論」を、「三段論法」と言ふ。
然るに、
(41)
主語は元々三段論法など伝統論理学の用語であった。三段論法では2つの前提文から結論文を正しく導くことが目的になる(主語:ウィキペディア)。
従って、
(40)(41)により、
(42)
「日本語」であれば、本来は、
AはBである。
BはAである。
∴ AはBである。
のやうな「三段論法」に於ける、「Aは・Bは」だけを、「主語」といふ。
然るに、
(43)
AはBである。
BはAである。
∴ AはBである。
といふ「推論」は、「普遍的」に「正しい」。
従って、
(28)(42)(43)により、
(44)
AはBである。
BはAである。
∴ AはBである。
といふ「日本語」に於ける、「Aは・Bは」だけを、「主語」と言はない。
とするのは、「暴言」以外の、何ものでもない。
いづれにせよ、
(45)
④{杉並も、練馬も、葛飾も、小笠原も}東京である。
従って、
(45)により、
(46)
① 中野は東京である。
東京は中野である。
③ 中野東京である。
④ 中野以外は東京ではない
に於いて、
① は、「本当」であるが、
② は、「ウソ」であって、
③ も、「ウソ」であって、
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(47)
④{大阪も、福島も、仙台も、名古屋も}日本の首都ではない
従って、
(47)により、
(48)
① 東京は日本の首都である。
日本の首都は東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(45)~(48)により、
(49)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことになる。
然るに、
(50)
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ「日本語」がさうであるやうに、
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、
③=④ であることは、「日本人の直観」が示すところの、「事実(fact)」である。
然るに、
(51)
これまでに、何度も確認してしてゐるやうに、
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
12 (4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1)~A→~B 仮定
 2 (2)    B 仮定
  3(3)~A    仮定
12 (4)   ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6) A    35背理法
1  (7) B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(51)により、
(52)
② Bはである。
以外Bでない
といふ「対偶(Contraposition)」に於いて、
②=④ であることは、「論理学」が「確認」する所の、「事実(fact)」である。
従って、
(50)(52)により、
(53)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことは、「学説」ではなく、「事実(fact)」である。
(54)
⑤ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
⑤ 象は鼻長い=
⑤ 象は鼻は長く、鼻以外は長くない
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻があって、その動物の、鼻以外は長くない=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「意味」である。

平成30年02月22日、毛利太。

「は」と「が」について、「ヤフー!知恵袋」に「質問」してみました。

(10)
① AはBである。
② BはAである。
の場合は、「」であって、といふ「そのこころ」は、
 必ずしも真ではない。
といふことからすれば、
① 中野は東京である。からと言って、
東京は中野である。ではないのは、「当然」である。
といふことである。
(11)
これまでに、何度も確認してしてゐるやうに、
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
12 (4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1)~A→~B 仮定
 2 (2)    B 仮定
  3(3)~A    仮定
12 (4)   ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6) A    35背理法
1  (7) B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(04)(11)により、
(12)
② Bはである。
以外Bでない
の場合は、「対偶」です。といふ「そのこころ」は、
 対偶の真理値は、等しい
といふことからすれば、
② 日本の首都は東京である。
東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
②=④ である。ことは、「事実(fact)」である。
といふことである。
(13)
皆さんの「直観」ではどうなのか。ということを教えてもらえれば、幸いです。
ネイティブではなくとも、日本語が得意な方であれば、あなたの意見も、お聞かせください。
といふ「そのこころ」は、次のやうな「事実」に、係はります。
(14)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
すなはち、
(15)
英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っている。
といふことからすれば、
① Aは(清音) よりも、
③ Aが(濁音) の方が、「大きな音」である。
といふことは、英語話者や中国語話者にとっても、さうである。
然るに、
(16)
① A is B. の、
① A を、「強調強く発音)」すれば、
is B. は、
Only A is B(AだけがBである).
といふ「意味」になるはずである。
従って、
(15)(16)により、
(17)
英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っている。
といふのであれば、
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、
③=④ である。
といふ「印象」を持つのは、「日本語ネイティブ」だけではなく、「英語ネイティブ」等であっても、「同じ」である、「可能性」がある。
然るに、
(12)により、
(18)
④ A以外Bでない。 の「対偶」は、
② BはAである。   であるため、
それ故、
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
③=④ であるならば、
必然的に
② Bはである。
Bである。
④ A以外Bでない
に於いて、
②=③=④
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(19)
逆は必ずしも真ではない(the reverse is not always true)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bない
に於いて、必ずしも
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふ、ことになる。
然るに、
(21)
実際に、
東京日本の首都である。
日本の首都東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
ものの、その一方で、
中野東京である。
東京中野である。
③ 中野東京である。
④ 中野以外は東京ではない
において、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
従って、
(20)(21)により、
(22)
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
③=④ である。
といふことを、「日本語のネイティブ」の多くが、認めるのであれば、その場合は、
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
といふことは、「は」と「が」を論じる際の、言はば、「公理(axiom)」になり得る。
然るに、
(23)
「ネット並びに、図書館」で調べる限り、
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、
③=④ である。
といふことを、指摘する研究者は、ゐる(?)ものの、
② Bはである。
以外Bでない
に於ける、
②=④ である。
といふ「対偶」を指摘してゐる人は、寡聞にして、ゐないやうである。
cf.
因みに、私自身は、おそらく、昭和60年の11月06日頃(?)に、『強調形と、排他的命題』といふやうなタイトルの論文を、「國語と國文学」へ投稿して、没になってゐます。
それ故、
(24)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことは、「は」と「が」を論じる際の、言はば、「公理(axiom)」になり得る。
といふことを、言ひたくて、かうした「記事」を、書き続けることになる。
然るに、
(25)
『日本語学』(2003年6月号)には、『「象は鼻が長い」入門』と山崎美紀子著『日本語基礎講座―三上文法入門』の2冊について井上優の書評が掲載された。そこに拙書『謎を解く』についてのコメントがある。私が三上文法について「国語学会や言語学会からいまだ正当の評価を受けていないのは誠に残念なことである」と書いたことを受けて、山崎紀美子と私が一蓮托生で批判されている(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、220頁)
然るに、
(26)
Untitled - 国立国語研究所
db3.ninjal.ac.jp/SJL/getpdf.php?number=1950350400
2018/02/07 - このような文の階層構造のモデルについては、『現代日本語文法の. 「な軌跡は、三上章の独創的な「主語廃止論」がたどった軌跡をほぼ. 輪郭』に体系的な記述がされていて、そちらが決定版だと言える。
従って、
(25)(26)により、
(27)
「三上章、象は鼻が長い」は、それから15年後の、「2018/02/07」の時点で、「今なお、健在」である。
然るに、
(28)
1 無題化ということ
第一章で、センテンスを題と解説に分けることにしました。この解説(述部)に名詞一個を含むセンテンスを六つ並べます。
 鼻は、象が長い。
 父は、この本を買ってくれました。
 日本は、温泉が多い。
 この本は、父が買ってくれました。
 きのうは、大風が吹いた。
 カキ料理は、広島が本場です。
これらのセンテンスから、題を底(base)とする名詞句を機械的に作ることができます。
底とは名詞句の末尾の名詞のことです。
 鼻が長い象
 この本を買ってくれた父
 温泉が多い日本
 父が買ってくれたこの本
 大風が吹いたきのう
 広島が本場であるカキ料理
次に、傍線の名詞を底とする名詞句を作ろうとすると、今度は、新しい助詞が現れてきます。
 象長い鼻
 父買ってくれたこの本
 日本多い温泉
 この本買ってくれた父
 きのう 吹いた大風
 カキ料理本場である広島
新しく現れた助詞は、順に「の」「が」「に」「を」「( )」「の」です。呼びやすいように少し順序を変えて、「がのにを」としておきます。
これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xかげから現れたと解釈するほかはありません。そこで潜在していたと考えることもできます。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、62~64頁)
然るに、
(29)
 鼻は、
 父は、
 日本は、
 この本は、
 きのうは、
 カキ料理は、
といふ「それ」を、
 鼻も、
 

 日本
 この本
 きのう
 カキ料理
といふ「それ」に「置き換へ」ると、
 鼻、象が長い。
 父、この本を買ってくれました。
 日本、温泉が多い。
 この本、父が買ってくれました。
 きのう、大風が吹いた。
 カキ料理、広島が本場です。
といふ「日本語」が、成立する。
然るに、
(30)
 鼻は、象が長い。
 父は、この本を買ってくれました。
 日本は、温泉が多い。
 この本は、父が買ってくれました。
 きのうは、大風が吹いた。
 カキ料理は、広島が本場です。
といふ「それ」に対して、
 鼻、象が長い。
 父、この本を買ってくれました。
 日本、温泉が多い。
 この本、父が買ってくれました。
 きのう、大風が吹いた。
 カキ料理、広島が本場です。
といふ「それ」も、「日本語」である。
従って、
(28)(29)(30)により、
(31)
① これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xは」のかげから現れたと解釈するほかはありません。
② これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xかげから現れたと解釈するほかはありません
に於いて、
① が、「正しい」のであれば、
、「正しい」ことになる。
従って、
(31)により、
(32)
①「がのにを」といふ「助詞」が、題「Xも」ではなく、題「X」のかげから現れた。とするのであれば、
②「がのにを」といふ「助詞」が、題「X」のかげからは、決して現われない。といふことを、三上先生は、「証明」しなければ、ならない。
然るに、
(33)
例へば、
 象長い鼻。  の「」が、
 象は鼻が長い。 の「」の影から現れたものであって、
 象長い鼻。  の「」は、
 象も鼻が長い。 の「」の影から現れたものではない。
などといふことを、「証明」することなど、出来るはずがない
従って、
(33)により、
(34)
① これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「X」のかげから現れたと解釈するほかはありません
と言はれても、そのやうな「仮説」を、そのままで、受け入れるわけには、行かない。
加へて、
(35)
さて、最初の六つのセンテンスの中身(事柄、コト)は、次のように書き表されます。
 象の鼻が長いコト
 父がこの本を買ってくれたコト
 日本に温泉が多いコト
 父がこの本を買ってくれたコト
 きのう 大風が吹いてコト
 広島がカキ料理の本場であるコト
これらのコトどもからそれぞれ傍線部の名詞を取りたてれば、つまりとして提示すれば、最初の六つのセンテンスに戻ります。反対に、それぞれの「は」を消して、上記のようなコトどもを取り出すことを、センテンスの無題化と呼ぶことにします。
無題化というのは、「Xは」の「は」を消すことですから、センテンスの形のままでもできないことはありませんが、センテンスの形では、本当に無題になりきれない場合も起こります。たとえば、
 私は、幹事です。
 私、幹事です。
のように、「は」を消しても、センテンスの意味は、
 幹事は、私です。
というのに近く、題が文中の別の個所に移り隠れたにすぎません。つまり、本当には無題化していないわけです。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、65頁・66頁)
といふ「説明」は、そもそも、私には、「何のこと」か、全く分からない。
然るに、
(24)により、
(36)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
は、ほとんど「公理(axiom)」である。
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 私は幹事である。
② 幹事は私である。
③ 私が幹事である。
④ 私以外は幹事ではない。
に於いて、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
は、ほとんど「公理(axiom)」である。
従って、
(37)により、
(38)
③ 私幹事です。
といふのであれば、
幹事は私です。
④ 私以外は幹事ではない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(39)
また、幹事が複数いる場合、その代表者が「幹事長」「代表幹事」と名乗るケースもある。幹事(かんじ)とは、あるグループを取りまとめる代表となる人をいう(ウィキペディア)。
然るに、
(38)(39)により、
(40)
② 幹事はです。
④ 私以外は幹事ではない
といふ「事実」が無い場合は、
③ 私幹事です。
とは、言はずに、
① 私幹事です。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(41)
世の中には、同窓会の幹事もさうであって、自民党幹事長もさうであるため、幹事と呼ばれる人は、いくらでも「ゐる」。
従って、
(37)(41)により、
(42)
① 私は幹事である。
幹事は私である。
③ 私幹事である。
④ 私以外は幹事ではない
に於いて、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」に、従ふ限り、
③ 私幹事です。
と言へば、それだけで、「ある特定の、一人の幹事」である。
従って、
(41)(42)により、
(43)
③ 幹事ゐる(幹事以外はゐない)。
③ 幹事ゐる(幹事以外は目に入ってゐない)。
といふのであれば、
③(ある時ある場所に)特定の幹事ゐる。
といふ風に、せざるを得ない。
然るに、
(44)
昔々あるところに、お爺さんとお婆さん、ゐました。
といふのであれば、それこそ、
③(ある時ある場所に)特定の、お爺さんとお婆さんゐた。
といふことになる。
然るに、
(45)
普通は、
③ お爺さん山に柴刈に行きました。
③ お婆さん川へ洗濯に行きました。
であるが、さうではなく、
お婆さんは山に柴刈に行きました。
③ お爺さんは川へ洗濯に行きました。
といふのであれば、「桃太郎の話」と、「話が逆」である。
然るに、
(46)
③ お婆さんは山に柴刈に行きました。
とは言はずに、
③ お婆さんが山柴刈に行きました。
といふのであれば、
③ お婆さん山へ柴刈に行き、
③ お婆さん以外(お爺さん)は柴刈に行きませんでした。
といふ、ことになる。
従って、
(42)~(46)により、
(47)
③ お爺さんではなく、お婆さん( )山に芝刈に行きました。
といふのであれば、
③ お爺さんではなく、お婆さん()山に芝刈に行きました。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(36)(47)により、
(48)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
は、「公理(axiom)」である。とするならば、
③ お爺さんではなく、お婆さん(は)山に芝刈に行きました。
ではなく、
③ お爺さんではなく、お婆さん()山に芝刈に行きました。
である「理由」を、「説明」することが、出来る。
然るに、
(49)
これらの助詞(が)はどこから現れたのかと言ふと、題「X」のかげから現れたと解釈するほかはありません。
といふ「仮定」を認めても、
③ お爺さんではなく、お婆さん(は)山に芝刈に行きました。
ではなく、
③ お爺さんではなく、お婆さん()山に芝刈に行きました。
である「理由」を、「説明」することなど、出来るはずがない
それ故、
(50)
私自身は、「三上文法」なるものを、全く、「信用」してゐないし、「日本語」にも、「主語」はあって欲しいと、思ってゐる
(51)
主語廃止論」を欠いた「文法」を呼んではいけない。困るのは、ありもしない主語を主張し、神学論争に明け暮れる上空の学界/学会ではない。いまだ母国語のまともな文法を知らない日本人、とりわけ子供たちである。また、私の場合は日本語教室という「地に足のついた」現場であり、そこにいる何百人もの教え子たちなのだ。「地に足のついた」現場に要るのは「土着」の文法であることは言うまでもな(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、235頁)
(52)
カナダにゐる、金谷武洋先生の、何百人、何千人の、教え子の方たち中の、どなたかに「この記事」が目にとまり、「この記事」に書かれてゐることは、ウソである。といふことを、金谷先生に、確認しようとする方が、ゐるならば、私自身は、そのことを、何よりも、うれしく思ひます。
平成30年02月19日、毛利太。

古典的名著「三上章、象は鼻が長い」について。

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(01)
ドイツ第一の日本語学者 Dr. Wenck は、わが Mikami を日本第一の文法研究家として推奨。
(『日本読書新聞』'64.2.3. 金田一春彦氏の書評から)
(02)
三上は、学者として、海外では広く知られていますが、国内では、それほど有名とは言へないでしょう。それは、国語学会が完全に無視しようと躍起になっているからです。なぜなら、三上の説を認めると、学校文法が根こそぎ崩壊してしまうからです。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、まえがき)
(03)
② BはAである。
④ A以外Bでない
といふ「日本語」は、
②  B→ A=BならばAである。
④ ~A→~B=AでないならばBでない
といふ風に、「書き換へる」ことが、出来る。
然るに、
(04)
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
  2 (2)   ~A 仮定
    3(3) B    仮定
12 (4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1)~A→~B 仮定
  2 (2)    B 仮定
    3(3)~A    仮定
12 (4)   ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6) A    35背理法
1  (7) B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(03)(04)により、
(05)
② BはAである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
②=④ である。
cf.
対偶(Contraposition)」は、互いに等しい。
然るに、
(06)
① AはBである。
② BはAである。
に於いて、
① は、② の「」であって、
② は、① の「」である。
然るに、
(07)
このように逆には(1)真でないときと(2)真であるときがあります。そこで(1)と(2)をひっくるめて「はかならずしも真ならず」といいます。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① AはBである。
② BはAである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも
①=② ではないが、必ず、
②=④ である。
然るに、
(09)
① 東京は日本である。
日本は東京である。
③ 東京日本である。
④ 東京以外は日本ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(10)
① 東京は日本の首都である。
日本の首都は東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
従って、
(12)
① これは良いです。
② 良いのはこれです。
③ これが良いです。
④ これ以外は良くない。
に於いても、必ずしも。
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(13)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ これいいです。
と言ふのであれば、それだけで、
② 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(これを下さい)。
といふ「意味」になる。
従って、
(12)(13)により、
(14)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ これいいです。
とは言はずに、
① これいいです。
と言ふのであれば、
① 良いのはこれです(とは言へない)。
① これ以外は良くないとは言へない)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
① 良いのはこれです(とは言へない)。
① これ以外は良くない(とは言へない)。
と言ふのと、
② 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないこれを下さい)。
と言ふのとでは、「意味」が「」である。
然るに、
(16)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
これはいいです。(用)
これいいです。(用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型意義になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
従って、
(12)~16)により、
(17)
三上先生は、
これはいいです。(不用)
これいいです。(用)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
といふこには、気付いてゐるものの、
① これは良いです。
良いのはこれです。
③ これ良いです。
④ これ以外は良くない
に於いても、必ずしも。
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことには、気付いてゐない
従って、
(02)(11)(17)により、
(18)
国語学会が完全に無視しようと躍起になっているから、海外では広く知られていますが、国内では、それほど有名とは言へない、三上章先生は、
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふ、「基本的な事実」にさえ、気が付いてゐない
然るに、
(19)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いても、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ、「最も基本的な日本語」に対する、「基本的な知識」さえ、持たないままに、組み立てられた、「日本語の文法論」が「正しい」ことなど、あるはずがない。
(20)
それは、私します。
という日本語文は、どうなるのでしょう。これも、総主語と称主語で片付けることができるのでしょうか。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、15・16頁)
然るに、
(21)
① 私はします
ではなく、
③ 私します。
と言ふのであれば、
するのは、私です。
③ 私します。
④ 私以外はしないでいいです。
であるため、この場合も、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いても、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
(22)
作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とします」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、38頁)
然るに、
(23)
「ゴボウは汚れを落とします」は、「ゴボウは(料理をするあなた、自分で)汚れを落とします。」といふ「意味」である。
(24)
8 「Xは」のピリオド超え
「Xは」の磁力線の強さは、文末はおろか、ピリオド(マル、句点)を超えて、次に続くセンテンスにまで及ぶことたたびたびあります。
F氏は大手企業の役員。みるからに知的な紳士であり、その辣腕と博学は社内外で高名だ。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、104頁)
然るに、
(25)
古文であれば、
+動詞+て+  +動詞+て・・・・・。
であっても、
主語+動詞+て+主語+動詞+て・・・・・。
である。といふ風に、東進ハイスクールの荻野文子先生が、YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=IeBO4U9QZO4)の、「開始から4分45秒」で言ってゐる。
従って、
(24)(25)により、
(26)
古文であれば、
F氏は大手企業の役員。みるからに知的な紳士であり、その辣腕と博学は社内外で 高名だ。
ではなく、
みるからに知的な紳士に、 その辣腕と博学は社内外に高名なり。
であっても、「日本語として正しい」といふか、荻野文子先生曰く、「かうした例が、一番多い。」
cf.
荻野文子先生曰く、「て」で繋がるなら「主語一緒、AさんならA。」
(27)
① 象はゐる
ゐるのは象だ。
③ 象ゐる
④ 象以外はゐない
に於いて、
②=③=④ であるため、
③ 象ゐる。
といふ「日本語」は、
②(今、目の前に)ゐるのは象である。
④(今、目の前に)象はゐて(象以外はゐない)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(28)
③ 象ゐる。
と言ふのであれば、「(ある時ある場所にゐる)具体的な、個別」の「象ゐる」ことになる。
cf.
③ 昔昔、ある所に、二頭の象住んでゐました。お婆さん象ではなく、お爺さん象、川へ洗濯へ行きました。
然るに、
(29)
① 象動物である。
と言ふのであれば、
集合としての「象」のことであるため、
① 象は鼻長い。
といふ場合の「象」は、{集合}としての、「象」であるとする。
然るに、
(30)
これまでに、何度も書いた通り、
① 象動物である。
と言ふのであれば、
①{象}以外については、何も述べてゐない
従って、
(31)
① 象鼻は長い。
と言ふのであれば、
①{象}と{象の鼻}以外については、何も述べてゐない
然るに、
(32)
③ 象は鼻長い。
と言ふのであれば、
③{象の鼻}と{鼻以外の、象のパーツ}を「比較」して、そのやうに、述べてゐる。
然るに、
(33)
③ 象は、鼻牙が長い。
といふ風に、思ってゐるのであれば、
③ 象は鼻長い。
とは、言はない。
従って、
(33)により、
(34)
③ 象は鼻長い。
といふ「日本語」は、
③ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻がある。
③ その動物が象であるならば、その動物の鼻以外のパーツは長くない
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(35)
③ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻がある。
③ その動物が象であるならば、その動物の鼻以外のパーツは長くない。
といふ「日本語」は、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
③ ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「述語論理」に、「翻訳」され、その「直訳」は、
③ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyは、そのxの鼻であって、尚且つ、yは長い。
③ すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ、「日本語」に、相当する。
然るに、
(36)
次に示す通り、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
③ ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ、「二つの論理式」は、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ、「一つの論理式」に、「等しい」。
(37)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              1&E
1 (3)   象a→∃y(鼻yx&長y)               2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            1&E
1 (5)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             4UE
 2(6)   象a                          A
12(7)      ∃y(鼻yx&長y)               63CP
12(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             65CP
12(9)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  78&I
1 (ア)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3(3)   象a                          A
13(4)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  23MPP
13(5)      ∃y(鼻yx&長y)               4&E
1 (6)   象a→∃y(鼻yx&長y)               35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              6UI
13(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             4&E
1 (9)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            7ア&I
然るに、
(38)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}
に対する「直訳」は、
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ、「日本語」に、相当する。
従って、
(34)(38)により、
(39)
③ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に関して、
③ 象は鼻長い=
③ 象は鼻長く、鼻以外は長くない
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
③ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻があって、その動物の鼻以外は長くない
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(40)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(40)により、
(41)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於いて、
③ ∀x の、
③  x の「意味」は、
③   {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} に、及んでゐる
然るに、
(42)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於いて、
③ ∀x の、
③  x は、象 である。
従って、
(39)~(42)により、
(43)
③ 象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
③ 象は の「意味」は、
③    鼻が長く、鼻以外は長くない。 に、及んでゐる
然るに、
(44)
③    鼻が長く、鼻以外は長くない。 には、
③       すなはち、
③        がある。
従って、
(43)(44)により、
(45)
③ 象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於ける、
③ 象は の「意味」は、
③    鼻が長く鼻以外は長くない。 に於ける、
③        超えてゐる
然るに、
(46)
3 コンマ超え
「Xハ」は、ピリオドにさえさえぎられないのですから、コンマ(テン、とう点)にさえぎられないことは言うまでもありません。
(三上章、象は鼻が長い、第13版、1982年、130頁)
従って、
(39)(45)(46)により、
(47)
三上先生が、言ふところの「コンマ超え」は、
③ 象は鼻が長い=
③ 象は鼻は長く、鼻以外は長くない=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「事実」に対する、「証左」であると、すべきである。
然るに、
(48)
そこでたとえば「象は鼻長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、
「すべてのxについて、もしが象であるならば、なるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
といえばいいかもしれない。
(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)
然るに、
(49)
④ すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふ「それ」は、
④ ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}
といふ「述語論理」に、対応する。
従って、
(39)(48)(49)により、
(50)
③ 象は鼻が長い=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とすべきところを、沢田先生は、
④ 象は鼻が長い=
④ ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}。
といふ風に、されてゐる。
然るに、
(51)
そこで私たちは主語を示す変項を文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、F はもとの文の主語に対応し、G述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
然るに、
(52)
③ 象は鼻長い。
であるとして、
③ 鼻が長い動物は何か。
といふ風に、問はれれば、「答へ」は、
③ 象 である。
(53)
③ 象は鼻長い。
であるとして、
③ 長いのはどの部分か。
といふ風に、問はれれば、「答へ」は、
③   鼻 である。
従って、
(51)(52)(53)により、
(54)
いづれにせよ、「述語論理」といふ「観点」からずれば、
③ 象は鼻長い≒
④ ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}≒
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるところの、
③ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、
③ x=象 といふ「主語」と、
③ y=鼻 といふ「主語」が、無ければ、ならない。
然るに、
(55)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『には主語必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。 ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)
従って、
(48)(54)(55)により、
(56)
英語のやうな言語」を「基準」にすれば、「このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。」としても、
「述語論理」を「基準」にすれば、
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理・日本語」は、「象x」と「(象xの)鼻y」といふ、少なくとも、「二つの主語」を持つ「論理的な文」である。
(57)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ  鼻ガ 長イ。
総主語 主語
私ハ 腹ガ  痛イ。 
主語 対象語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
然るに、
(58)
普通は、
③ 腹痛い。
と言ふのであって、
③ 私痛い。
とは、言はない。
然るに、
(11)により、
(59)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(11)により、
(60)
③ 私は腹痛い。
と言へば、
痛いのは私の腹である。
④ 私の腹以外は痛くない
といふ、「意味」になる。
従って、
(60)により、
(61)
③ 私は腹痛い。
とは言はずに、
① 私は腹痛い。
と言へば、
① 私は、腹痛いし、頭痛い。
のかも、知れない。
従って、
(60)(61)により、
(62)
④ 私の腹以外は痛くない
のであれば、
③ 私は腹痛い。
と言ふべきであって、
① 私は腹痛い。
といふ風に、言ふべきではない。
(63)
ついこの間見た、テレビCMの中の、若い男女の会話に、
① 甘いものは好きですか。
① 今日好きです。
といふのが、ある。
然るに、
(64)
① 甘いものは好きですか。
① 好きです。
と言はずに、
① 今日好きです。
と言ふのであれば、
④(今日以外は好きではないけれども)今日は好きです。
といふ「意味」になる。
然るに、
(64)により、
(65)
① 甘いものは好きですか。
④(いつもは好きではないれど)今日は好きです。
といふのであれば、
④(いつもは好きではないれど、あなたがさう言ふのであれば)今日は好きです。
といふ「意味」である。
然るに、
(66)
① 甘いもの好きですか。
④(普段は、甘いものはあまり食べないが、あなたがさう言ふのであれば)今日好きなので(あなたと一緒に甘いものを食べたい)。
といふのであれば、「会話」が、成立する。
いづれにしても、
(67)
もう一度、確認すると、
① 三上章は日本人である。
日本人は三上章である。
③ 三上章日本人である。
④ 三上章以外は日本人ではない
に於いて、
① は、「本当」であって、
② は、「ウソ」であって、
③ も、「ウソ」であって、
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(68)
① 三上章は「象は鼻が長い」の著者である。
② 「象は鼻が長い」の著者は三上章である。
③ 三上章「象は鼻が長い」の著者である。
④ 三上章以外は「象は鼻が長い」の著者ではない
① は、「本当」であって、
② も、「本当」であって、
③ も、「本当」であって、
④ も、「本当」である。
従って、
(67)(68)により、
(69)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
といふ「日本語」に於いて、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことは、「学説」ではなく、「事実(fact)」である。
従って、
(70)
もう一度、書くものの、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いても、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ、「最も基本的な日本語」に対する、「基本的な知識」さえ、持たないままに、組み立てられた、「日本語の文法」が「正しい」ことなど、あるはずがない
従って、
(39)(70)により、
(71)
名著であるとされてゐる「象は鼻が長い」の中で書かれてゐることは、取るに足らない。
然るに、
(72)
『「象は鼻長い。」の「主語」は何ですか?』といふ生徒からの「質問」に対して、「答へ」を用意できない「日本語教師」にとって、「日本語から、主語を抹殺した、三上理論」ほど、「好都合な文法理論」は、無いことになる。
然るに、
(73)
2 主語を補うテクニック
古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省かれている文が多いことです。主語がわかれば文はずいぶんと読みやすくなります。次のテクニックをつかいましょう。
①「人物」の直後に読点(、)があるとき、98%が主語になる。
「人物」は、機械的に「は・が」を補って主語にするのだと覚えてください。
② 接続詞の「て」「で」の前後は、98%同一人物が主語になる。
(荻野文子、古文マドンナ解法、1993年、11頁)
従って、
(72)(73)により、
(74)
「日本語から、主語を抹殺した、三上理論」は、「外国人に、日本語を教へる際には、役に立つ。」としても、「古文を読解する上では、全く、役に立たない。」
然るに、
(75)
今では、日本語文法イコール三上文法と言えるくらい、三上は貢献しています。ただし、これは外国人に教える場合の日本語です。
(76)
外国人に日本語を教へる場合、その外国人は、「古文や、漢文」までは、読まうとしない方が、「普通」なはずである。
従って、
(77)
外国人に日本語を教へる場合、それが「便利」であるならば、外国人には、「三上文法」を教へれば良い。といふ、ただ、それだけのことである。
然るに、
(78)
人称代名詞主語としてつかわれることは、意を強める場合か、対照的の場合のほかはないといっていい。これは普通主語動詞の語尾に表されていて、すぐわかるからである。
Ego te laudtu me non laudas.
ここで ego(私)といい、tu(お前)というのは、特に「自分だ、と褒めるのは自分だと強調したからであり、また、一方、tu と対照させたからである。ego も tu もなくとも laudo、laudas だけで分るわけである。
(村松正俊、ラテン語四週間、1961年、182頁)
然るに、
(79)
⑤ 君汲川流我拾薪=
⑤ 君は川流を汲め、我は薪を拾はん=
⑤  You, draw water from the river! I'll gather firewood.
でなくて、
⑤ 薪を拾ふから、川流を汲んでくれ。
であっても、
⑤ 我は薪を拾はん、君は川流を汲め。
である。
従って、
(78)(79)により、
(80)
「我・君」が無くとも、「我・君」が有るといふ点に於いて、「日本語」の場合も、「ラテン語」の場合と同様である(が、日本語には、人称語尾も無い)。
然るに、
(81)
⑤ 私薪を拾ふから、君は川流を汲んでくれ。
ではなく、
⑥ 私薪を拾ふから、君は川流を汲んでくれ。
といふのであれば、
⑥「薪を拾ふのは、君ではなく、私である。」といふ「意味」が、「強く」なる。
従って、
(78)(81)により、
(82)
⑤ 私・は(清音) に対する、
⑥ 私・音) は、「強調形」であるに、違ひない。
然るに、
(83)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(84)
もし音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(82)(83)(84)により、
(85)
⑤ 私・は(清音) に対する、
⑥ 私・音) は、「強調形」である。
従って、
(81)(85)により、
(86)
① 東京は日本の首都である。
に対して、敢へて、
③ 東京日本の首都である。
と言ふのであれば、その場合は、
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ、「意味」になる。
cf.
排他的命題(Exclusive proposition)」。
然るに、
(87)
④ 東京以外は日本の首都ではない
の「対偶」は、
② 日本の首都は東京である。
であって、「対偶」の「真理値」は、必ず、「等しい」。
従って、
(86)(87)により、
(88)
① 東京は日本の首都である。
日本の首都は東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふ、ことになる。
従って、
(88)により、
(89)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことは、「必然的な、帰結」である。
然るに、
(14)により、
(90)
三上章先生は、そのことに、気付くことは無かった。
従って、
(91)
そのやうな三上先生が書いた、「三上文法」を、積極的に評価する人物が奉ずる「理論」を、私自身は、評価しない。
平成30年02月17日、毛利太。

私は・私が・私も大野です。

(01)
これまでに、何度も書いたものの、
① 東京は日本である。
① 東京は日本の首都である。
といふ「日本語」は、両方とも、「本当」である。
(02)
② 東京日本である。
③ 日本は東京である。
④ 東京以外は日本ではない。
といふ「日本語」は、三つとも、「ウソ」である。
(03)
② 東京日本の首都である。
③ 日本の首都は東京である。
④ 東京以外は日本の首都ではない。
といふ「日本語」は、三つとも、「本当」である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① AはBである。
② Aである。
はAである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
(05)
①  私x(xは私である)=
① 目前x(xはあなたの目の前にゐる)。
とする。
従って、
(05)により、
(06)
① 私は大野です。
といふ「日本語」は、
① ∃x(目前x&大野x)=
① あるxはあなたの目前にゐるて、そのxは大野である。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(04)により、
(07)
② 私大野です。
といふ「日本語」は、
② 私だけが大野です。
といふ「意味」である。
然るに、
(08)
② xだけが大野である。
といふことは、
② xと「同一人物」でない者は、いかなるyであっても大野ではない。
といふことである。
(09)
② xと「同一人物」でない者は、いかなるyであっても大野ではない。
といふことは、
② ∀y[~(y=x)→~(大野y)]=全てのyについて、yとxが「同じ」でなければ、yは大野ではない。
といふことである。
然るに、
(10)
② AがBである。
といふこと、すなはち、
② AだけがBである。
といふことは、
② AでないならばBでない
といふことに、他ならない。
然るに、
(11)
(a)
1  (1)~A→~B 仮定
 2 (2)    B 仮定
  3(3)~A    仮定
12 (4)   ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6) A    35背理法
1  (7) B→ A 26条件法
(b)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
12 (4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
従って、
(10)(11)により、
(12)
② Aでないならばない
といふことは、
ならばAである。
といふことに、他ならない。
cf.
「対偶(Contrapositon)」は、等しい。
従って、
(12)により、
(13)
② ~(y=x)→~(大野y)=「xと同一のyでなければ大野ではない。」
といふことは、
②  (大野y)→ (y=x)=「yが大野ならば、yはxと同一である。」
といふことに、他ならない。
従って、
(09)(13)により、
(14)
② ∀y[~(y=x)→~(大野y)]
といふことは、
② ∀y[ (大野y)→ (y=x)]
といふことに、他ならない。
従って、
(06)(09)(14)により、
(15)
② 私大野です。
といふ「日本語」は、
② ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)]}=
② あるxはあなたの目前にゐて、そのxは大野であって、全てのyについて、yが大野であるならば、yとxは「同一」である。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
(16)
③ 大野夫妻がゐる。とすると、
③ ミスター大野と、ミセス大野は、別人である。
従って、
(17)
③ 大野夫妻がゐる。とすると、
③ 二人の別人の大野さんがゐる。
然るに、
(18)
③ 今、ここには、「大野夫妻」以外に、「大野さんはゐない」ものとする。
(19)
③ 夫である大野さん=x
③ 妻である大野さん=z
とする。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
③ いかなるyであっても、yが大野であるならば、yはxであるか、yはzであり、yとzは、別人である。
然るに、
(21)
③ いかなるyであっても、yが大野であるならば、yはxであるか、yはzであり、yとzは、別人である。
といふことは、
③ 全てのyについて、yが大野であるならば、yはxであるか、yはzであり、yとzは、別人である。
といふことである。
従って、
(06)(21)により、
(22)
③ 私大野です。
といふ「日本語」は、
③ ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)∨(y=z)&~(y=z)]}=
③ あるxはあなたの目前にゐて、そのxは大野であって、全てのyについて、yが大野であるならば、yはxであるか、yはzであり、yとzは、別人である。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
cf.
{(y=x)か(y=z)}={~(y=x)→(y=z)}={~(y=z)→(y=x)}の「か」は、すなはち、
{(y=x)∨(y=z)}={~(y=x)→(y=z)}={~(y=z)→(y=x)}の「∨」は、{(y=x)&(y=z)}であることを、「否定」しない。
従って、
(06)(15)(22)により、
(23)
① 私は大野です。
② 私が大野です。
③ 私も大野です。
といふ「日本語」は、それぞれ、
① ∃x(目前x&大野x)。
② ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)]}。
③ ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)∨(y=z)&~(y=z)]}。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(23)により、
(24)
① 私大野です=私は大野です。
② 私大野です=私大野です+∀y[大野y→(y=x)]。
③ 私大野です=私大野です+∨(y=z)&~(y=z)。
といふ「等式」が成立する。
然るに、
(25)
「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは構文的に名詞に過ぎない」と明らかに宣言すべきである。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない。2002年、34頁)
従って、
(24)(25)により、
(26)
①「私」ではなく、xといふ「主語」が、「私は大野です。」と言ふのであれば、xは、x以外に関しては、「何も言ってゐない。」
②「私」ではなく、xといふ「主語」が、「私が大野です。」と言ふのであれば、xは、x自身と、全てのyについて、「言ってゐる。」
③「私」ではなく、xといふ「主語」が、「私も大野です。」と言ふのであれば、xは、x自身と、全てのyと、xとは別人のzについて、「言ってゐる。」
然るに、
(27)
③ 私大野です=私が大野です+∨(y=z)&~(y=)。
ではなく
③ 私大野です=私が大野です+∨(y=y)&~(y=)。
であると「仮定」する。
然るに、
(28)
③ ~(y=y) は、「矛盾」であるため、
③  (y=y) でなければ、ならない。
従って、
(27)(28)により、
(29)
③ 私も大野です=私が大野です+∨(y=y)&~(y=y)。
ではなく、
③ 私も大野です=私が大野です+∨(y=y)& (y=y)。
であって、それ故、
③ 私も大野です=私が大野です+∨( 真 )& ( 真 )。
である。
従って、
(24)(29)により、
(30)
③ ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)∨(真)&(真)]}。
であるものの、
③ ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)∨(真)&(真)]}。
といふ「式」は、
② ∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)]}。
といふ「式」に、他ならない。
cf.
 {(1∨1)&1}=1
 {(0∨1)&1}=1
  ∴
 P が、「真(1)」であっても、
 P が、「偽(0)」であっても、
 {(P∨1)&1}=1 である。
  ∴
   P         に於ける、「Pの真理値」と、
 {(P∨1)&1}=1 に於ける、「Pの真理値」は、「等しい」。
従って、
(27)~(30)により、
(31)
② 私垣見五郎兵衛である=∃x{目前x& the 垣見x&∀y[the 垣見y→(y=x)]}。
③ 私垣見五郎兵衛である=∃x{目前x& the 垣見x&∀y[the 垣見y→(y=x)∨(y=z)&~(y=z)]}。
に於いて、② と ③ は「矛盾」する。
然るに、
(32)
37講 初めに格助詞「・の」です。両者は非常によく似ています(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)。
すなはち、
(33)
④ 君の家、私の国、君の行く道、博士の愛した数式。
に対して、
⑤ 君が世、我が国、君が行く道、博士が愛した数式。
であるため、「」と「の」は、非常によく似てゐる。
従って、
(32)(33)により、
(34)
④ 博士の愛した数式(がある)=∃y{∃x(博士x&数式y&愛xy)}。
⑤ 博士愛した数式(がある)=∃y{∃x(博士x&数式y&愛xy)}。
に於いて、
④「博士の」の「の」は、「格助詞」である。
⑤「博士が」の「が」も、「格助詞」である。
然るに、
(35)
⑥ 口耳の間は四寸のみ
に於いて、
⑥「のみ」は「助詞」である。
然るに、
(36)
① AはBなり(AはBである)。
② AもBなり(AもBである)。
③ AのみBなり(AがBである)。
に於いて、
①「は」と、
②「も」が、「係助詞」であるならば、
③「のみ」であっても、「助詞」でない、はずがない。
加へて、
(37)
44講 助詞「」のはたらき
副助詞と同じく、それがなくても意味が通じるという類の助詞に、掛助詞があります。副助詞と働きが似ているところから、助詞として扱う文法書もありますが、ここでは別に扱います(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)。
従って、
(37)により、
(38)
」は、「助詞」と言へば、「助詞」であって、「助詞」と言へば、「助詞」である。
従って、
(35)(36)(38)により、
(39)
「ある助詞」が、ある場合に、「助詞」であって、ある場合に、「助詞」であるとしても、不都合はない。
従って、
(45)
「ある助詞」が、ある場合に、「助詞」であって、ある場合に、「助詞」であるとしても、不都合はない。
従って、
(41)
⑤ 博士愛した数式(がある)=∃y{∃x(博士x&数式y&愛xy)}。
に於ける、「が」が「助詞」であって、
② 私大野です=∃x{目前x&大野x&∀y[大野y→(y=x)]}。
⑥ 象は鼻長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於ける、「が」が、「助詞」であるとしても、不都合はない。
然るに、
(42)
三上先生は、「三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、9・10頁」に於いて、
⑥ 象は鼻が長い。
⑦ 象長い鼻。
⑧ 父買ってくれたこの本。
といふ「例文」を用ゐて、「助詞の」と、「助詞の」を、「区別せずに、論じようと、してゐる。」
(43)
文末と呼応して一文を完成をする仕事が「ハ」の本務です。中身への関与の仕方は「ハ」の兼務です(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、8頁)。
といふ「説明」は、はっきり言って、自分には、「何を言ひたのか」が、全く分からない。
(44)
日本語で典型的な文(センテンス)は、「Xは」で始まる題述関係の文です。公式で一括して、
 Xハウンヌン
 題目  述 部
と書くことができます(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、8頁)。
といふのであれば、
① AはBである。
② Aである。
はAである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふ「事実」を、三上先生は、どのやうに述べてゐる。
のだらうかと、「疑問」に思へるため、「三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版」に、目を通すことにする。
平成30年02月12日、毛利太。
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Author:タカ
写真は蛍雪時代(高三)。この頃に、漢文が好きになりました。

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