返り点に対する「括弧」の用法について提案
FC2ブログ

反論: どうして鏡は左右を逆に映すのに上下はそのままなの?

(01)
解答: どうして鏡は左右を逆に映すのに上下はそのままなの?
2008年04月23日 20時23分52秒 | 学校で教えてくれないコト(gooブログ)
大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。そして「上下も逆に映していない。」のだ。鏡がしていることは「鏡を正面から見たときに手前と奥を逆転させている。」だけなのだ。
然るに、
(02)
「紙に書いた文字」は「2次元(平面)」であって、「3次元(立体)」ではない。
然るに、
(03)
「2次元(平面)」に有るのは「上下左右」だけであって、「前後(手前と奥)」は無い。
従って、
(02)(03)により、
(04)
「紙に書いた文字」には「奥行(手前と奥)」が無いが故に、
「紙に書いた文字」の、「奥行(手前と奥)」を「逆転させる」ことは、出来ない。
従って、
(01)(04)により、
(05)
「紙に書いた文字」に関しては、
『鏡がしていることは「鏡を正面から見たときに手前逆転させている。」だけなのだ。』
といふことには、ならない
然るに、
(06)
紙にも表裏があります。
どちらが表か分からなくなった時はまず紙の表面を触ってみると良いでしょう。
一般的に、スベスベしたなめらかな方が表、ちょっとザラザラしたほうが裏です。
(紙の表裏・上下 2017年5月8日、コラム, 紙, 道具の話|紙)
それ故、
(06)により、
(07)
「紙の表面」を「紙の表面」と呼び、
「紙の裏面」を「紙の背中」と呼ぶことにする。
然るに、
(08)
「AE」といふ「文字」を、
「コピー用紙の表面」に書いてから、「そのコピー用紙の背中(裏面)」を見ると、
「AE」といふ「文字」は、「背中(裏面)の側」には無い。
然るに、
(09)
「AE」と書いた「そのコピー用紙の背中(裏面)」を、自分に向けたまま、「照明にかざす」と、「コピー用紙」は「十分に薄い(0.08㎜)」ため、
「∃A」といふ「文字」が「透けて見える」。
然るに、
(10)
「AE」と書いた「コピー用紙」を「鏡に向ける」と、「鏡の中」で、
「AE」といふ「文字」は、
「∃A」といふ「文字」に見える。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
「鏡の中」の
「∃A」といふ「文字」は、
「AE」と書いた「コピー用紙の表面」を、
背中(裏面)の側から、透かして見てゐる際の形」に「等しい」。
然るに、
(10)により、
(12)
「AE」と書いた「Tシャツ」を着て、「鏡の前」に立つと、
「鏡の中」で、
「AE」といふ「Tシャツの文字」は、言ふまでもなく、
「∃A」といふ「文字」に見える。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「AE」と書いた「Tシャツ」を着て、「鏡の前」に立つと、
鏡の中の、文字輪郭」と、
鏡の中の、自分輪郭」は、
鏡の外で、背中(裏面)を向けて立ってゐる際の、輪郭」に「等しい」。
然るに、
(14)
「鏡の前」に立つとき、
「鏡の中の、もう一人の自分は、こちらを向いてゐる。」
従って、
(14)により、
(15)
「鏡の中の、もう一人の自分は、背中を向けてゐない。」
従って、
(13)(15)により、
(16)
「鏡の前」に立つとき、
「鏡の中の、もう一人の自分は、背中(裏面)を向けてゐないのに、背中(裏面)を向けてはゐる。」
然るに、
(17)
「AE」と書いた「Tシャツ」を着た人物が、「回れ右」をして「こちらを向く」ならば、
「AE」といふ「文字」は、言ふまでもなく、
「AE」といふ「文字」に「見える」。
然るに、
(18)
「∃A(鏡の)」と、
「AE(鏡の)」は、
左右(∃E)がで、上下(AA)が等しい。」
従って、
(17)(18)により、
(19)
「鏡の中の人物」を、
「回れ右」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。
と「仮定」すると、
「左右(∃E)が逆で、上下(AA)が等しい。」
といふ「矛盾」が生じる。
従って、
(19)により、
(20)
「鏡の中の人物」は、
回れ右」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。
といふ「仮定」は、「否定しなければ、ならない
cf.
背理法(Reductio ad absurdum)。
然るに、
(21)
「AE」と書いた「Tシャツ」を着た人物が、「回れ右」をして「こちらを向く」ならば、
「AE」といふ「文字」は、
「AE」に「見える」ものの、
「AE」と書いた「Tシャツ」を着た人物が、「逆立ち」をして「こちらを向く」ならば、
「AE」といふ「文字」は、
「∃∀」といふ「文字」に「見える」。
然るに、
(22)
「∃A(鏡の)」と、
「∃∀(鏡の)」は、
上下(A∀)がで、左右(∃∃)が等しい。」
従って、
(21)(22)により、
(23)
「鏡の中の人物」を、
「逆立ち」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。
と「仮定」すると、
「上下(A∀)が逆で、左右(∃∃)が等しい。」
といふ「矛盾」が生じる。
従って、
(23)により、
(24)
「鏡の中の人物」は、
逆立ち」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。
といふ「仮定」は、「否定しなければ、ならない
従って、
(20)(24)により、
(25)
α)「鏡の中の人物」は、「回れ右」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。といふ「仮定」は、「否定」しなければ、ならない。
β)「鏡の中の人物」は、「逆立ち」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。といふ「仮定」は、「否定」しなければ、ならない。
然るに、
(26)
我々は、「後ろを振り向く」際に、「逆立ちをして、振り向く」といふことを、「普通は、しない。」
従って、
(25)(26)により、
(27)
α)「鏡の中の人物」は、「回れ右」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。といふ「仮定」。
β)「鏡の中の人物」は、「逆立ち」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。といふ「仮定」。
といふ「二つの仮定」の内の、
β)に関しては、「初めから、否定済み」であるものの、
α)に関しては、「否定、出来ない」のが、「普通」である。
従って、
(17)~(27)により、
(28)
β)「鏡の中の人物」は、「逆立ち」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。といふ「仮定」だけでなく、
α)「鏡の中の人物」は、「回れ右」をして「こちらを向いた」後の、「もう一人の自分」である。といふ「仮定」も、「同時に、否定」しなければ、ならない。
といふことに「気づくことが出来ず」、それ故、「どうして鏡は左右に映すのに上下そのままなの?」
といふ「疑問」だけが、生じることになる。
然るに、
(29)
このことを、「理解」するためには、
「AE」と書いた「Tシャツ」を着て、「鏡の前」に立つと、
鏡の中の、文字輪郭」と、
鏡の中の、自分輪郭」は、
鏡の外で、背中(裏面)を向けて立ってゐる際の、輪郭」に「等しい」。
といふことを、「理解」する必要がある。
然るに、
(30)
このことを、「理解」するためには、まず最初に、
「鏡の中」の、例へば、「∃A」といふ「文字」は、「AE」と書いた「コピー用紙の表面」を、『背中(裏面)の側から、透かして見てゐる際の形』に「等しい」。
といふことを、「理解」する必要がある。
従って、
(31)
大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。そして「上下も逆に映していない。」のだ。
といふことは、その通りだとしても、
鏡がしていることは「鏡を正面から見たときに手前逆転させている。」だけなのだ。
といふことを、敢へて「強調」する「必要」はない。といふ風に、思はれる。
平成31年04月22日、毛利太。

「選言導入の規則(∨I)」は「不思議」ではない。

(01)
選言の導入または追加(または導入とも呼ばれる)[1] [2] [3]は命題論理および他のほとんどすべての推論システムの推論の法則です。規則は論理的証明に選言を導入することを可能にする。ある推論あればというPが真である場合、PまたはQが真でなければなりません。
英語での例:
ソクラテスは男です。したがって、
ソクラテスは男である、豚がイギリスの海峡を越えて編隊で飛んでいる。
規則は次のように表すことができます。
形式表記
P→(P∨Q)
(英語版、ウィキペディア、グーグル翻訳改)。
従って、
(01)により、
(02)
「明日は土曜である。」従って、
「明日は土曜であるか、明日は雨である。」
といふ「推論」は、「∨-導入の規則」により、「妥当(valid)」である。
従って、
(02)により、
(03)
P=明日は土曜である。
Q=明日は雨である。
として、
1(1)P   A
1(2)P∨Q 1∨-導入の規則
といふ「推論」は、「妥当(valid)」である。
然るに、
(04)
1(1) P        A
1(2)    P∨Q   1∨I
 (3) P→ P∨Q   12CP
 (4) ~P∨P∨Q   含意の定義
 (5)(~P∨P)∨Q  結合法則
 (6)( 排中律 )∨Q  5
 (7)(   )∨Q  6
然るに、
(05)
①(偽)∨Q ならば、Qは、真であるときに限って、「(偽)∨Q」は真であるが、
②()∨Q ならば、Qが、であっても、Qが、であっても、「(真)∨Q」は真である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
 (7)(   )∨Q  6
ならば、       Qが、であっても、Qが、であっても、
 (7)(   )∨Q  6
は、である。
従って、
(04)(06)により、
(07)
1(1) P        A
1(2)    P∨Q   1∨I
といふ「推論」は、
「Pである。故に、Pであるか、Qである。」と、言ってゐる一方で、それと「同時」に、
「Pであるが、Qであるか、Qでないかは、分からない。」と言ってゐるのに、「等しい」。
従って、
(03)(07)により、
(08)
1(1)明日は土曜である。          A
1(2)明日は土曜であるか、明日は雨である。 1∨I
といふ「推論」は、
「明日は土曜である。故に、明日は土曜であるか、明日は雨である。」と、言ってゐる一方で、それと「同時」に、
「明日は土曜であるが、明日は雨であるか、雨でないかは、分からない。」と言ってゐるのに、「等しい」。
然るに、
(09)
「明日は土曜である。故に、明日は土曜であるか、明日は雨である。」といふ「言ひ方」は、「不自然」であっても、
「明日は土曜であるが、明日は雨であるか、雨でないかは、分からない。」といふ「言ひ方」は、「不自然」ではない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
1(1)明日は土曜である。          A
1(2)明日は土曜であるか、明日は雨である。 ∨-導入の規則
といふ「推論」は、「不自然」ではない。
平成31年04月19日、毛利太。

「未有仁而遺其親者也。」の「述語論理」。

(01)
(ⅰ)
1   (1)∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)} A
1   (2)   仁a→~∃y(親ya&遺ay)  1UE
 3  (3)   仁a               A
13  (4)      ~∃y(親ya&遺ay)  23MPP
13  (5)      ∀y~(親ya&遺ay)  4量化子の関係
13  (6)        ~(親ba&遺ab)  5UE
13  (7)        ~親ba∨~遺ab
  8 (8)        ~親ba        A
  8 (9)        ~遺ab∨~親ba   8∨I
   ア(ア)             ~遺ba   A
   ア(イ)        ~遺ab∨~親ba   9∨I
13  (ウ)        ~遺ab∨~親ba   789アイ∨E
13  (エ)         遺ab→~親ba   ウ含意の定仁
13  (カ)      ∀y(遺ay→~親ya)  エUI
1   (キ)   仁a→∀y(遺ay→~親ya)  3カCP
1   (ク)∀x{仁x→∀y(遺xy→~親yx)} キUI
(ⅱ)
1   (1)∀x{仁x→∀y(遺xy→~親yx)} A
1   (2)   仁a→∀y(遺ay→~親ya)  1UE
 3  (3)   仁a               A
13  (4)      ∀y(遺ay→~親ya)  23MPP
13  (5)         遺ab→~親ba   4UE
13  (6)        ~遺ab∨~親ba   5含意の定仁
  7 (7)        ~遺ab        A
  7 (8)        ~親ba∨~遺ab   8∨I
   9(9)             ~親ba   A
   9(ア)        ~親ba∨~遺ab   ア∨I
13  (イ)        ~親ba∨~遺ab   6789ア∨E
13  (ウ)        ~(親ba&遺ab)  イ、ド・モルガンの法則
13  (エ)      ∀y~(親ya&遺ay)  ウUI
13  (オ)      ~∃y(親ya&遺ay)  エ量化子の関係
1   (カ)   仁a→~∃y(親ya&遺ay)  3オCP
1   (キ)∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)} カUI
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)}
(ⅱ)∀x{仁x→∀y(遺xy→~親yx)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)であり、
(ⅱ)ならば(ⅰ)である。
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ)∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)}
(ⅱ)∀x{仁x→∀y(遺xy→~親yx)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
従って、
(03)により、
(04)
(ⅰ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、あるyはxの親であって、xがyを遺棄するといふ、そのやうなyは存在しない。
(ⅱ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、xがyを遺棄するのであれば、yはxの親ではない。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(05)
(ⅱ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、xがyを遺棄するのであれば、yはxの親ではない。
といふのであれば、
(ⅱ)仁者であっても、自分の親でなければ、遺棄する。
といふことに、なりさうである。
然るに、
(06)
(ⅱ)遺xy→~親yx
(ⅱ)xがyを遺棄するのであれば、yはxの親ではない。
 の「対偶」は、
(ⅲ)親yx→~遺xy
(ⅲ)yがxの親であるならば、xはyを遺棄しない。
 であるため、
(ⅱ)は、
(ⅱ)自分の親でない場合については、「何も、言ってはゐない。」
然るに、
(03)(06)により、
(07)
(ⅱ)遺xy→~親yx の「対偶」が、
(ⅲ)親yx→~遺xy である。
 といふことは、
(ⅰ)∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)}
(ⅱ)∀x{仁x→∀y(遺xy→~親yx)}
(ⅲ)∀x{仁x→∀y(親yx→~遺xy)}
 に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ)=(ⅲ) である。
といふことに、他ならない。
従って、
(04)(07)により、
(08)
(ⅰ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、あるyはxの親であって、xがyを遺棄するといふ、そのやうなyは存在しない。
(ⅱ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、xがyを遺棄するのであれば、yはxの親ではない。
(ⅲ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、yがxの親であるならば、xはyを遺棄しない。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ)=(ⅲ) である。
然るに、
(09)
(ⅰ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、あるyはxの親であって、xがyを遺棄するといふ、そのやうなyは存在しない。
(ⅱ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、xがyを遺棄するのであれば、yはxの親ではない。
(ⅲ)すべてのxについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、yがxの親であるならば、xはyを遺棄しない。
といふことが、「真」であるならば、
(ⅳ)昔から仁に志すもので、親をすてさったものは、一人もいないことになる。
然るに、
(09)
未有仁而遺其親者也。
未だ仁にして其の親を遺つる者は有らざるなり。
昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もいない(小林勝人 訳)。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
(ⅳ)未有仁而遺其親者也。
といふ「漢文(孟子、梁惠王章句上)」は、
(ⅰ)∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)}
(ⅱ)∀x{仁x→∀y(遺xy→~親yx)}
(ⅲ)∀x{仁x→∀y(親yx→~遺xy)}
といふ「述語論理」に、相当する。
然るに、
(11)
(ⅰ)∀x=「すべてのx」≒「昔から、今までのすべてのx」
(ⅱ)~∃=「有らず」
従って、
(09)(10)により、
(12)
① 未有仁而遺其親者。
② 未だ仁にして其の親を遺つる者は有らず。
③ ∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)}=
③ 昔から、今まのすべてのについて、xが仁者であるならば、すべてのyについて、yがxの親であるならば、xはyを遺棄しない。
であれば、
① の「語順」よりも、
② の「語順」方が、
③ の「語順」に、「似てゐる」。
然るに、
(13)
再読文字
未:未だ~せず 文では、現代文や古文とは違った文法がでてきます。その中の1つが再読文字です。どのようなものかと言うと、文字通り、2回読む文字です。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
③ ∀x{仁x→~∃y(親yx&遺xy)}=昔から、今までに、仁に志すもので親を捨てさったものは、一人もいない。
といふ「述語論理」に於ける、
③ ∀x    ~∃y
は、「未(再読文字)」に、「似てゐる」。
平成31年04月18日、毛利太。

「吾輩は猫である。」に於ける「吾輩は(のスコープ)」について。

(01)
(ⅰ)
1(1)∀x{∀y(Fxy)} A
1(2)   ∀y(Fay)  1UE
1(3)      Fab   2UE
1(4)   ∀x(Fxb)  3UI
1(5)∀y{∀x(Fxy)  4UI
(ⅱ)
1(1)∀y{∀x(Fxy)} A
1(2)   ∀x(Fxb)  1UE
1(3)      Fab   1UE
1(4)   ∀y(Fay)  3UI
1(5)∀x{∀y(Fxy)} 4UI
 cf.
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、163頁改)
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∀x(Fxy)}
に於いて、
(a)ならば(b)であり、
(b)ならば(a)である。
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ)∀x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∀x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(04)
(ⅰ)
1 (1)∃x{∀y(Fxy)} A
 2(2)   ∀y(Fay)  A
 2(3)      Fab   2UI
 2(4)   ∃x(Fxb)  3EI
1 (5)   ∃x(Fxb)  134EE
1 (6)∀y{∃x(Fxy}  5UI
(ⅱ)
1 (1)∀y{∃x(Fxy)} A
1 (2)   ∃x(Fxb)  1UE
 )      Fa   A
 3(4)   ∀y(Fay)  UI
 3(5)∃x{∀y(Fay)} 4EI
1 (6)∃x{∀y(Fay)} 235EE
然るに、
(05)
ただ一つの誤った段階は、(ⅱ)の(4)である。()は、「」を含み、その結果UIの制限が破られている点が誤りである。
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、166頁改)
従って、
(04)(05)により、
(06)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば(ⅱ)ある。ではない
従って、
(06)により、
(07)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) ではない
然るに、
(08)
{a、b、c}が「変域(ドメイン)」であるとして、
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}={∀y(Fay)}∨{∀y(Fby)}∨{∀y(Fcy)}
(〃)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(09)
{a、b、c}が「変域(ドメイン)」であるとして、
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}={∃x(Fxa)}&{∃x(Fxb)}∨{∃x(Fxc)}
(〃)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
従って、
(08)(09)により、
(10)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
然るに、
(11)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
であれば、「真理表」により、例へば、
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)
が「真」であれば、「(ⅰ)の全体」が「真」である。
然るに、
(12)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)
が「真」であれば、「&E、∨I、&I」により、
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
は「真」である。
従って、
(08)~(11)により、
(13)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)である。
然るに、
(14)
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
であれば、「真理表」により、例へば、
(ⅱ)(Faa&Fab&Fac)
は「真」であるが、
(ⅱ)(Fba&Fcb&Fac)
「真」である。
然るに、
(15)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
の、「三つの、選言項」中に、
(ⅱ)(Faa&Fab&Fac) といふ「選言項」は有るが、
(ⅱ)(Fba&Fcb&Fac) といふ「選言項」は無い
従って、
(14)(15)により、
(16)
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
が「」である。としても、
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
が「」であるとは、限らない
従って、
(13)(16)により、
(17)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
に於いて、
(ⅰ)ならば、(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば、(ⅰ)である。とは、限らない。
(18)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)F=親である。
(ⅱ)F=親である。
とする。
従って、
(17)(18)により、
(19)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
に於いて、
(ⅰ)ならば、(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば、(ⅰ)である。とは、限らない。
然るに、
(20)
「現実の世界」を、想定すると、
親aa=aは自分自身の親である。
親bb=bは自分自身の親である。
親cc=aは自分自身の親である。
とするわけには、行かない。
然るに、
(21)
しかしながら、逆の連式 ∀y{∃x(Fxy)}├ ∃x{∀y(Fxy)} は導出可能ではない。またそれが可能であることは願わしいことでもないだろう。人間の世界を考え、親であるという関係としよう。すると、すべての人はある人を親としてもつが、しかしすべての人の親である人が存在する、ということは偽である。
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、166頁改)
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
「現実の世界」を、想定すると、
親aa=aは自分自身の親である。
親bb=bは自分自身の親である。
親cc=aは自分自身の親である。
とするわけには、行かないが、E.J.レモン自身も、「F=親である」としてゐるので、「話を簡単にする」ため、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
であるとする。
然るに、
(23)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
といふ「論理式」に於いて、
(ⅰ)(親aa&親ab&親ac)ならば、「aはすべての人の親である。」
(ⅰ)(親ba&親bb&親bc)ならば、「bはすべての人の親である。」
(ⅰ)(親ca&親cb&親cc)ならば、「cはすべての人の親である。」
従って、
(11)(23)により、
(24)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(25)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅱ)(親aa∨親ba∨親ca)の中の、少なくとも、一つの(親#a)が「真」であり、
(ⅱ)(親ab∨親bb∨親cb)の中の、少なくとも、一つの(親#b)が「真」であり、
(ⅱ)(親ac∨親bc∨親cc)の中の、少なくとも、一つの(親#c)が「真」である。
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(26)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
(ⅱ)(親aa∨親ba∨親ca)の中の、一つの(親#a)が「真」であり、
(ⅱ)(親ab∨親bb∨親cb)の中の、一つの(親#b)が「真」であり、
(ⅱ)(親ac∨親bc∨親cc)の中の、一つの(親#c)が「真」である。
といふことは、
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
に於いて、
「aには、aの親である#が存在し、bにも、bの親である#が存在し、cにも、親である#が存在する。」といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(27)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
「aには、aの親である#が存在し、bにも、bの親である#が存在し、cにも、親である#が存在する。」といふことは、
「すべての人は、ある人のである。」といふことに、他ならない。
(25)(26)(27)により、
(28)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人はある人の子である。
といふ風に、読むことが、出来る。
従って、
(24)(28)により、
(29)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、それぞれ、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(30)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ「論理式」は、
(ⅰ)∃x∀y親xy=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y∃x親xy=すべての人は、ある人の子である。
といふ風に、書く方が、「普通」である。
然るに、
(31)
(ⅰ)∃x∀y親xy
(ⅱ)∀y∃x親xy
に於いて、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}
といふ「括弧」が、無いのであれば、固より、
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
といふ「二つの等式」は、成立しない
従って、
(31)により、
(32)
(ⅰ)∃x∀y親xy=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y∃x親xy=すべての人は、ある人の子である。
といふ「論理式」には、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(33) 
括弧は、論理演算子スコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(32)(33)により、
(34)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は{すべての人の親である。}
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は{ある人の子である。}
に於いて、
(ⅰ)∃x=ある人
(ⅱ)∀y=すべての人
といふ「演算子」の、それぞれの「意味」は、
(ⅰ){∀y(親xy)}={すべての人の親である。}
(ⅱ){∃x(親xy)}={ある人の子である。}
といふ「述部の全体」に、「及んでゐる」。
然るに、
(35)
以前にも示した通り、
1     (1) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)} A
1     (〃)あるxは吾輩であって猫であるが、名前は無い。 A
1     (〃)    吾輩は猫である。名前はまだ無い。   A
 2    (2)    吾輩a&猫a& ~∃y(名前ya)  A
 2    (3)    吾輩a                2&E
 2    (4)        猫a             2&E
 2    (5)            ~∃y(名前ya)  2&E
  6   (6) ∃x{タマx&     ∃y(名前yx)} A
  6   (〃)あるxはタマであり、あるyはxの名前である。 A
  6   (〃)    タマには名前が有る。         A 
   7  (7)    タマa&     ∃y(名前ya)  A
   7  (8)    タマa&               7&E
   7  (9)             ∃y(名前ya)  7&E
 2 7  (ア)   ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya)  59&I
 26   (イ)   ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya)  67アEE
 2    (ウ)~∃x{タマx&     ∃y(名前yx)} 6アRAA
  2    (エ)∀x~{タマx&     ∃y(名前yx)} ウ量化子の関係
 2    (オ)  ~{タマa&     ∃y(名前ya)} エUE
 2    (カ)   ~タマa∨    ~∃y(名前ya)  オ、ドモルガンの法則
    キ (キ)   ~タマa                A
    キ (ク) ~∃y(名前ya)∨~タマa        キ∨I
     ケ(ケ) ~∃y(名前ya)             A
     ケ(コ) ~∃y(名前ya)∨~タマa        ケ∨I
 2    (サ) ~∃y(名前ya)∨~タマa        カキクケコ∨E
 2    (シ)  ∃y(名前ya)→~タマa        サ含意の定義
 2 7  (ス)           ~タマa        9シMPP
 2 7  (セ)     吾輩a&~タマa          3ス&I
 2 7  (ソ)     吾輩a&~タマa&猫a       4セ&I
 2 7  (タ)  ∃x(吾輩x&~タマx&猫x)      ソEI
 26   (チ)  ∃x(吾輩x&~タマx&猫x)      67タEE
1 6   (ツ)  ∃x(吾輩x&~タマx&猫x)      12チEE
1 6   (〃)あるxは吾輩であってタマではなく猫である。  12チEE
1 6   (〃)    吾輩はタマではないが、 猫である。  12チEE
従って、
(34)(35)により、
(36)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)あるxは{吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃)    {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
に於いて、
(ⅰ)∃x=吾輩x=吾輩は
といふ「演算子」の「意味」は、
(ⅲ)    {吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)    {吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃)    {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
といふ「述部の全体」に、「及んでゐる」。
従って、
(36)により、
(37)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)あるxは{吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃)    {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
といふ「述語論理・日本語」の「主題・題目」は、確かに「吾輩」である。
然るに、
(38)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「二つの&」が有るものの、このことは、「述語論理の観点」からすると、
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つの文が有る。」といふことを、示してゐる。
然るに、
(39)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つの文が有る。」といふことは、
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つのピリオド(。)が有る。」といふことを、示してゐる。
然るに、
(40)
吾輩猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
三上は、冒頭の題目「吾輩」の文はピリオドを3回に渡った超えていると分析する。つまり、以下のような形で示せるのである。
  吾輩は→猫である。
  吾輩は→名前はまだ無い。
  吾輩は→どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
  吾輩は→何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)
然るに、
(35)により、
(41)
吾輩猫である。名前はまだ無い。
はともかく、
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
といふ「日本語」を、「述語論理」に置き換へることは、少なくとも、私には、無理である。
然るに、
(42)
(ⅳ)=名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
であるとして、
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
といふ「日本語」を、「述語論理」に置き換へることが、出来るのであれば、その場合は、
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&}⇔
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(43)
(ⅳ)=名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
の中に、仮に、「四つの&」が有るとする。
従って、
(38)(39)(42)(43)により、
(44)
その場合には、
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}
といふ「述語論理」には、「多ければ、八つのピリオド(。)が有る。」といふ、ことになる。
(40)(44)により、
(45)
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}⇔
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
に於ける、
(ⅳ)∃x=吾輩x=吾輩
といふ「演算子の意味」が、「複数のピリオド(。)を超える。」といふことは、「述語論理的には、普通である」。
然るに、
(46)
金谷武洋先生曰く、
三上章の『象は鼻が長い』を読み、「主語廃止論」と並んで衝撃的であったのは、「」のコンマ超えピリオド越えである(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)。
との、ことである。
平成31年04月13日、毛利太。

「矛盾(韓非子)」の「述語論理」。

(01)
楚人有鬻盾与矛者。 
誉之曰、 
吾盾之堅、莫能陥也。 
又誉其矛曰、 
吾矛之利、於物無不陥也。 
或曰、 
以子之矛、陥子之盾、何如。 
其人弗能応也。 
(02)
楚人有[鬻〔盾与(矛)〕者]。 
誉(之)曰、 
吾盾之堅、莫(能陥)也。 
又誉(其矛)曰、 
吾矛之利、於(物)無〔不(陥)〕也。 
或曰、 
以(子之矛)、陥(子之盾)、何如。 
其人弗〔能(応)〕也。 
(03)
楚人に[〔盾と(矛)とを〕鬻く者]有り。 
(之を)誉めて曰く、 
吾が盾の堅きこと、(能く陥す)莫きなり。 
又た(其の矛を誉めて)曰く、 
吾矛の利なること、(物に)於いて〔(陥さ)不る〕無きなり。 
或ひと曰く、 
(子の矛を)以て、(子の盾を)陥さば、何如ん。 
其の人〔(応ふる)能は〕ざるなり。
(04)
[一]矛盾〈韓非子〉
(通 釈)
楚の国の人に、盾と矛を売り歩くものがあった。
(その人)がこの商品をほめて「わたしの盾の堅くてじょうぶなこといったら、これを突きとおすことのできるものはない。」と言い、
またその矛をほめて「わたしの矛の鋭利なことといったら、どんな物であろうと突きとおしてしまう。」と言った。
(これを聞いた)ある人が「あなたの矛でもってあなたの盾をついたら、どういうことになりますか。」と言った。
(盾と矛を売っていた)その人は何とも返事をすることができなかった。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、31頁)
(05)
1        (1)  ∃x(盾x)&∃y(矛y)       A
 2       (2)  ∀x{盾x→ ∃y(矛y& 陥yx)} A
  3      (3)  ∀y{矛y→ ∃x(盾x&~陥yx)} A
1        (4)  ∃x(盾x)              1&E
1        (5)  ∃y(矛y)              1&E
   6     (6)     盾a               A
    7    (7)     矛b               A
 2       (8)     盾a→ ∃y(矛y& 陥ya)  2UE
  3      (9)     矛b→ ∃x(盾x&~陥bx)  3UE
 2 5     (ア)         ∃y(矛y& 陥ya)  58MPP
  3 7    (イ)         ∃x(盾x&~陥bx)  79MPP
     ウ   (ウ)            矛b& 陥ba   A
      エ  (エ)            盾a&~陥ba   A
     ウ   (オ)            陥ba       ウ&E
      エ  (カ)               ~陥ba   エ&E
     ウエ  (キ)           ~陥ba&陥ba   カオ&I
 2 5  エ  (ク)           ~陥ba&陥ba   アウキEE
 2357    (ケ)           ~陥ba&陥ba   イエクEE
1235     (コ)           ~陥ba&陥ba   57ケEE
123      (サ)           ~陥ba&陥ba   35コEE
 23      (シ)~{∃x(盾x)&∃y(矛y)}      1サRAA
 23      (ス)~∃x(盾x)∨~∃y(矛y)       シ、ド・モルガンの法則
 23      (セ) ∃x(盾x)→~∃y(矛y)       ス含意の定義
       ソ (ソ)~∃x(盾x)               A
       ソ (タ)~∃y(矛y)∨~∃x(盾x)       ソ∨I
        チ(チ)~∃y(矛y)               A     
        チ(ツ)~∃y(矛y)∨~∃x(盾x)       チ∨I
 23      (テ)~∃y(矛y)∨~∃x(盾x)       スソタチツ∨EE
 23      (ト) ∃y(矛y)→~∃x(盾x)       テ含意の定義
 23      (ナ) ∃x(盾x)→~∃y(矛y)&
             ∃y(矛y)→~∃x(盾x)       セト&I
従って、
(05)により、
(06)
(1)ある盾xが存在し、ある矛yが存在する。 と「仮定」して、
(2)すべてのxについて、xが盾ならば、あるyは矛であって、yはxを陥す。  と「仮定」して、
(3)すべてのyについて、yが矛ならば、あるxは盾であって、yはxを陥さない。と「仮定」すると、
(ナ)ある盾xが存在するならば、ある矛yは存在せず、
   ある矛yが存在するならば、ある盾xは存在しない。 といふ「結論」を、得ることになる。
従って、
(04)(06)により、
(07)
夫不可陷之楯與無不陷之矛、不可同世而立。
夫不〔可(陷)〕之楯與[無〔不(陷)〕之矛]、不[可〔同(世)而立〕]。
夫れ陥すべからざるの楯と、陥らざる無きの矛とは、世を同じくして立たつべからず。
といふ「主張」、すなはち、
「わたしの盾の堅くてじょうぶなこといったら、これを突きとおすことのできるものはない。」
「わたしの矛の鋭利なことといったら、どんな物であろうと突きとおしてしまう。」といった、「そのやうな盾と矛は、同時には、存在しない」。
といふ「主張」は、「述語論理(Predicate logic)」としても、「妥当(Valid)」である。
平成31年04月09日、毛利太。
次のページ
プロフィール

タカ

Author:タカ
写真は蛍雪時代(高三)。この頃に、漢文が好きになりました。

リンク
このブログをリンクに追加する
最近の記事
月別アーカイブ
ブログ内検索
RSSフィード
最近のコメント