返り点、括弧 、集合数(Ⅲ)。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

返り点、括弧 、集合数(Ⅲ)。

(01)
(A)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
(B)補足構造に関して、漢文と訓読の語順は、全く反対である。
(C)漢文の補足構造を「集合数」で表した時、訓読の語順は、「順序数」である。
といふ「三つの条件」の元で、例へば、
我未_嘗聞鳥啼梅樹声=
我尚不嘗聞鳥啼梅樹声=
我尚不[嘗聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]⇒
1 2[3〔4(5 5)6 7〕8]9=
我尚[嘗〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
我尚だ[嘗て〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞か]ず。
といふ『括弧による、ソート(漢文訓読)』が、成立する。
(02)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
に於いて、
①を括る際に、②を用ゐ、
②を括る際に、③を用ゐ、
③を括る際に、④を用ゐる。
ならば、その時に限って、『括弧』とする。
従って、
(02)により、
(03)
〔( )〕 は、『括弧』であるが、
(〔 )〕 は、『括弧』ではなく、
〔( 〕) も、『括弧』ではない。
(04)
不〔読(漢文)〕。
に於いて、
不 は、読(漢文)
に、係ってゐて、
読 は、漢文
に、係ってゐる。
然るに、
(05)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 不〔読(漢文)〕。
といふ『括弧』は、
① 不読漢文=漢文を読ま不。
といふ「漢文」の、「管到」を表してゐる。
(07)
9=囗囗囗囗囗囗囗囗囗
8=囗囗囗囗囗囗囗囗
7=囗囗囗囗囗囗囗
6=囗囗囗囗囗囗
5=囗囗囗囗囗
4=囗囗囗囗
3=囗囗囗
2=囗囗
1=囗
に於いて、
9は8を含み、
8は7を含み、
7は6を含み、
6は5を含み
5は4を含み、
4は3を含み、
3は2を含み、
2は1を含む。
といふ際の、
9 8 7 6 5 4 3 2 1。
を、「集合数」とし、
1番目、2番目、3番目、4番目、5番目、6番目、7番目、8番目、9番目。
といふ際の、
1 2 3 4 5 6 7 8 9。
を、「順序数」とする。
然るに、
(08)
② 3 2 1 1。
に於いて、
② 3 といふ「集合数」は、「2 1 1」といふ「三つの集合数」を含むものの、是を以て、
② 3(2 1 1)。
といふ風に、書くものとする。
(09)
② 3(2 1 1)。
に於いて、
② 2 といふ「集合数」は、「1 1」といふ「二つの集合数」を含むものの、是を以て、
② 3〔2(1 1)〕。
といふ風に、書くものとする。
従って、
(06)(09)により、
(10)
① 不〔読(漢文)〕。
② 3〔2(1 1)〕。
に於いて、
① 不 は、読漢文 に、「管到」し、読 は、漢文 に、「管到」する。
といふ「言ひ方」は、
① 不読漢文。 の「管到」は、
② 3 2 1 1。 である。
といふ風に、「言ひ換へ」ることが、出来る。
(11)
「未」は「いまダ~ズ」とよみ、「まだ~しない」の意で、「尚不」と同じである。
(中澤希夫、澁谷玲子、漢文訓読の基礎、1985年、90頁)
従って、
(11)により、
(12)
未=いまダ+ズ=
未=尚ダ +不。
であるため、
尚だ=いまだ
といふ風に、読むことにする。
従って、
(12)により、
(13)
③ 我未嘗聞鳥啼梅樹声=
③ 我尚不嘗聞鳥啼梅樹声。
であるが、この時、仮定により、
③ 我尚不嘗聞鳥啼梅樹声。 の「管到」は、
④ 1 2 9 3 8 4 6 5 5 7。 であるとする。
然るに、
(14)
④ 1 2 9 3 8 4 6 5 5 7。 
に於いて、
④ 9 といふ「集合数」は、「3 8 4 6 5 5 7」といふ「七つの集合数」を含むものの、是を以て、
④ 1 2 9(3 8 4 6 5 5 7)。 
といふ風に、「括弧」で括る。
(15)
④ 1 2 9(3 8 4 6 5 5 7)。 
に於いて、
④ 8 といふ「集合数」は、「4 6 5 5 7」といふ「五つの集合数」を含むものの、是を以て、
④ 1 2 9〔3 8(4 6 5 5 7)〕。 
といふ風に、「括弧」で括る。
(16)
④ 1 2 9〔3 8(4 6 5 5 7)〕。
に於いて、
④ 6 といふ「集合数」は、「5 5」といふ「二つの集合数」を含むものの、是を以て、
④ 1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]。
といふ風に、「括弧」で括る。
従って、
(10)(13)(16)により、
(17)
③ 我尚不嘗聞鳥啼梅樹声。 の「管到」が、
④ 1 2 9 3 8  4 6 5 5 7。 であるならば、その時に限って、
③ 我尚不[嘗聞〔鳥啼(梅樹)声〕]。
④ 1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]。
といふ『括弧』が、成立する。
然るに、
(18)
④ 1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]。
を、「順序数」と見なすならば、
④ 1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]⇒
④ 1 2[3〔4(5 5)6 7〕8]9。
といふ『括弧による、ソート(漢文訓読)』が、成立する。
従って、
(17)(18)により、
(19)
我=1
尚=2
不=9
嘗=3
聞=8
鳥=4
啼=6
梅=5
樹=5
声=7
であるならば、その時に限って、
③ 我尚不嘗聞鳥啼梅樹声=
③ 我尚不[嘗聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
④ 1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]⇒
④ 1 2[3〔4(5 5)6 7〕8]9=
③ 我尚[嘗〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
③ 我尚だ[嘗て〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞か]ず。
といふ『括弧による、ソート(漢文訓読)』が、成立する。
従って、
(19)により、
(20)
その「返り点」が、


不=不

聞=中

啼=二

樹=一
声=上
であるならば、その時に限って、
③ 我未_嘗聞鳥啼梅樹声=
③ 我尚不嘗聞鳥啼梅樹声=
③ 我尚不[嘗聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
④ 1 2 9[3 8〔4 6(5 5)7〕]⇒
④ 1 2[3〔4(5 5)6 7〕8]9=
③ 我尚[嘗〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
③ 我尚だ[嘗て〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞か]ず。
といふ『括弧による、ソート(漢文訓読)』が、成立する。
cf.
FC2J12
然るに、
(21)
仮に、「日本語の語順」が、
③ 聞かない=聞か不。
ではなく、
ない聞か=聞か。
であったとする。
すなはち、
(22)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことに関して、
ない聞か=聞か。
のやうな、「例外」が有ると、仮定する。
然るに、
(23)
「日本語の語順」が、
③ 我尚だ嘗て鳥の梅樹に啼く声をない聞か。
であるならば、その際の「返り点」は、


不=中

聞=下

啼=二

樹=一
声=上
でなければ、ならない。
然るに、
(24)
③ 下[中〔二(一)上〕]=
③ 五[四〔二(一)三〕]⇒
③ [〔(一)二三〕四]五。
に対して、
③ 中〔下[二(一)上〕]=
③ 四〔五[二(一)三〕]⇒
③ 〔[(一)二三〕四]五。
従って、
(23)(24)により、
(25)
③ 我尚だ嘗て鳥の梅樹に啼く声をない聞か。
であるが故に、その「返り点」が、


不=中

聞=下

啼=二

樹=一
声=上
である。
とすることは、
③[〔( )〕]
といふ「漢文の補足構造」を、
③〔[( )〕]
といふ風に、「書き換へる」ことに、等しい。
然るに、
(02)により、
(26)
③[〔( )〕]
といふ『括弧』に対する、
③〔[( )〕]
といふ『括弧』は、有り得ないし、更に言へば、
 中 二 一 上
といふ「返り点」に対する、
③ 中  二 一 上
といふ「返り点」も、「漢文訓読」に於いては、絶対に、有り得ない。
従って、
(25)(26)により、
(27)
③ 我尚不嘗聞鳥啼梅樹声。
に対する、
③ 下 中 二 一 上
といふ「返り点」を、
③ 中 下 二 一 上
といふ「番号」に、「置き換へ」ることは、
③[〔( )〕]
といふ「補足構造」を、
③〔[( )〕]
といふ「補足構造」に、「置き換へ」ることに、他ならない。
然るに、
(28)
⑤  I(LIVE IN 東京)⇒(LIVE IN 東京)I.
⑤(LIVE〔IN 東京)I〕 ⇒(〔IN 東京)I〕LIVE.
であるため、
⑤ I(LIVE〔IN 東京)〕⇒(〔IN 東京)I〕LIVE.
然るに、
(29)
⑥ 二(三〔一)〕⇒(〔一)二〕三.
であるため、
⑤ I(LIVE〔IN 東京)〕⇒(〔IN 東京)I〕LIVE.
であれば、「返り点」は、
⑤ 二 三 一
でなければ、ならない。
然るに、
(30)
⑤  I LIVE IN 東京 =
⑤  I LIVE(IN 東京)⇒
⑤  I (IN 東京)LIVE=
⑤  私は(東京に)住んでゐる。
であるため、
⑤  I LIVE IN 東京.
の「補足構造」は、
⑤(  )
であって、「返り点」は、
⑤ 二 一。
が、正しい。
従って、
(29)(30)により、
(31)
⑤  I LIVE IN 東京.
に対する、
⑤ 二 一。
といふ「返り点」を、
⑤ 二 三 一
といふ「番号」に、「置き換へ」ることは、
⑤(  )
といふ「補足構造」を、
⑤(〔 )〕
といふ「補足構造」に、「置き換へ」ることに、他ならない。
従って、
(31)により、
(32)
⑤ 我 住(於東京)。
に対する、
⑤ 二 一。
といふ「返り点」を、
⑤ 二 三 一
といふ「番号」に、「置き換へ」ることは、
⑤(  )
といふ「補足構造」を、
⑤(〔 )〕
といふ「補足構造」に、「置き換へ」ることに、他ならない。ものの、「漢文」の場合は、
⑤ 我 住(於東京) =
⑤ 我 住(東京)。
である。
従って、
(32)により、
(33)
⑤ 躬 耕(南陽)。
⑤ 躬 耕(於南陽)。
に対する、
⑤ 二 一。
といふ「返り点」を、
⑤ 二 三 一
といふ「番号」に、「置き換へ」ることは、
⑤(  )
といふ「補足構造」を、
⑤(〔 )〕
といふ「補足構造」に、「置き換へ」ることに、他ならない。
然るに、
(34)
FC2J6
従って、
(33)(34)により、
(35)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
② 臣は本布衣、躬ら(南陽に)耕す。
③ 臣本来是一個平民、(〔在南陽)親自〕耕田種地、
といふ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、
①と②は、
①(  )
②(  )
であるため、「補足構造」は、同じであって、その一方で、
①と③は、
①(  )
③(〔 )〕
であるため、いづれにせよ、等しくない。
加へて、
(36)
①と③ の場合は、
① 臣本布衣
③ 臣本来是一個平民
のやうに、漢字自体が、異なるものの、
①と② の場合は、
① 臣本布衣、
② 臣は本布衣、
の場合は、漢字自体は、等しい。
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
② 臣は本布衣、躬ら(南陽に)耕す。
③ 臣本来是一個平民、(〔在南陽)親自〕耕田種地、
といふ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、「より大きく異なる」のは、
①と③であって、
①と②ではない。
然るに、
(38)
①と②が、「小さく異なり」、
①と③が、「大きく異なる」のであれば、
②と③は、「大きく異なる」はずである。
然るに、
(39)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア:漢文)。
然るに、
(40)
いづれにせよ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、
①と③が、「小さく異なる」のであれば、
漢文は、普通に「訓読」出来る一方で、
白話文を「訓読」するとたいへん奇妙な日本語になる。
といふことは、おそらく、矛盾する。
従って、
(39)(40)により、
(41)
例へば、
① 臣本布衣、躬耕於南陽。苟全性命於乱世、
② 臣は本布衣、躬ら南陽に耕す。苟も性命を乱世に全うして、
③ 臣本来是一個平民、在南陽親自耕田種地、只想在乱世中苟且保全性命。
のやうな、
① 漢文、
② 訓読、
③ 現代中国語訳。
に於いて、
①と③は、「全く別物」であるとしても、不思議ではないが、例へば、次の通りである。
(42)
ユーザーID:A9191609315
漢文と現代中国語は全く別物
のぶりん
2011年8月19日 20:40
はじめまして。
中国語と中国情勢でメシを食っている者ですが、結論はタイトルの通りです。
漢文がわかっても現代中国語はわからないし、逆も然りです。
自分も仕事柄と教養のために中国古典を読んでますが、漢文はさっぱりで見るのは専ら日本語訳の方です(笑
言葉は生き物のように常に進化します。中国語も無論時代を経て進化していて、日本なら織田信長が生まれた頃に書かれた『菜根譚』という古典なら文章が漢文と現代中国語の中間くらいなので、現代中国語の知識を持っていれば「原文でも何とかわかる」という感じです。
(43)
(B)補足構造に関して、漢文と訓読の語順は、全く反対である。
といふことは、「漢文の語順」と「訓読の語順」は、「規則正しく」、異なってゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(44)
現代中国語では動詞が前置される場合と後置される場合がある(金文京、漢文と東アジア、2010年、167頁)。
といふことからすると、「漢文の語順」と「現代中国語の語順」は、「規則正しく」、異なってゐる。とは、言へない。
以是、
(45)
中国語不可以読中夏之書審也=
中国語不[可〔以読(中夏之書)〕]審也=
1 1 1 6[5〔2 4(3 3 3 3)〕]7 8⇒
1 1 1[〔2(3 3 3 3)4〕5]6 7 8=
中国語[〔以(中夏之書)読〕可]不審也=
中国語は[〔以て(中夏の書を)読む〕可から]不ること審かなり。
平成27年06月12日、毛利太。
(46)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。
(47)
両者の亀裂は、戦後も親中国革新派の音読、反中国保守派の訓読として、ある意味で現在にまでつづいている(金文京、漢文と東アジア、2010年、88・9頁)。

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