「返り点(ミラーイメージ)」。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

「返り点(ミラーイメージ)」。

(01)
①「鏡」が「逆転」させるのは、「前後」だけである。
従って、
(02)
①「鏡の中」に於いて、
②「上下」は「逆転」しないし、
③「左右」も「逆転」しない。
従って、
(02)により、
(03)
①「鏡の中の自分」は、
②「逆立ち」をしてゐないし、
③「回れ右」もしてゐない。
ところが、
(04)
①「普通の人」は、
①「鏡の中の自分」は、
②「逆立ち」はしてゐないが故に、
③「回れ右」をしてゐるはずである。
といふ風に、思ってしまふ。
然るに、
(05)
②「逆立ち」はしてゐないし、
③「回れ右」もしてゐないにも拘はらず、
③「回れ右」をしてゐる。
と思ふのであれば、必然的に、
③ 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... -Yahoo!知恵袋
といふ「疑問(鏡像問題)」が、生じることになる。
(06)
① Ⅲ〔Ⅱ(Ⅰ)〕⇔〔(Ⅰ)Ⅱ〕Ⅲ
等を、「鏡像(mirror image)」とする。
(07)
① 3〔2(1)〕⇒〔(1)2〕3。
等を、「ミラーイメージ」とする。
従って、
(07)により、
(08)
② A3〔B2(C1)〕⇒ A〔B(C1)2〕3。
は、「ミラーイメージ」ではない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
3〔2(1)〕 ⇒(1)2〕3。
② A3〔B2(C1)〕 ⇒ A〔B(C1)2〕3。
に於いて、
① は、「ミラーイメージ」であって、
② は、「ミラーイメージ」ではない。
従って、
(09)により、
(10)
② A3B2C1=
② A3〔B2(C1)〕⇒
② A〔B(C1)2〕3=
② A B C 1 2 3。
といふ「ソート(並び替へ)」は、「ミラーイメージでない部分(アルファベット)」をそのままにして、「ミラーイメージの部分(数字)」の「左右」を「入れ換へる」ことによって、成立する。
然るに、
(11)
A=我
3=不
B=常
2=読
C=漢
1=文
とする。
従って、
(10)(11)により、
(12)
② A3B2C1=
② 我3〔2読(漢1)〕⇒
② 我〔読(漢1)2〕3=
② 我〔常(漢文)読〕不=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」は、「ミラーイメージでない部分」をそのままにして、「ミラーイメージの部分」の「左右」を「入れ換へる」ことによって、成立する。
(13)
8=知
A=我
3=不
B=必
2=羞
C=小
1=節
D=而
7=恥
E=功
F=名
6=不
G=常
5=顕
H=于
iI =天
4=下
J=也
とする。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 8A3B2C1D7EF6G5HI4J=
③ 8{我3〔必2(小1)〕而7[功名6〔常5(于天4)〕]}也 ⇒
③ {我〔必(小1)2〕3而[功名〔常(于天4)5〕6]7}8也 =
③ {我〔必(小節)羞〕不而[功名〔常(于天下)顕〕不]恥}知也 =
③ {我の必ずしも〔(小節を)羞ぢ〕不し而[功名の〔常には(天下に)顕〕はれ不るを]恥づるを}知れば也。
といふ「漢文訓読」は、「ミラーイメージでない部分」をそのままにして、「ミラーイメージの部分」の「左右」を「入れ換へる」ことによって、成立する。
然るに、
(15)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
加へて、
(16)
于=に
と読むとき、
于天下=に+天下
であるため、この場合も、日本語と漢文の語順は逆になる。
然るに、
(17)
漢文の場合は、
于天下=天下に
天下=天下に
であって、このことが、
于 は、「置き字(捨て字・虚字)」であるとされる、所以である。
cf.
漢文を訓読する際に、助字の中で書き下し文に反映されず、実際に読まれる事のない字(ウィキペディア、置き字)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
于天下=に+天下
ではあるが、
于天下=天下+に
とする。
従って、
(15)~(18)により、
(19)
日本語と漢文では、「補足構造」等が、逆になるものの、以下ではこれらを、「補足構造の部分」と呼ぶことにする。
従って、
(20)
功名于天也。
であれば、「太字」で示されてゐる部分が、「補足構造の部分」であるが、以下では、
不=ず・ざ
而=て
也=なり
といふ風に、読むものとする。
従って、
(14)(20)により、
(21)
③ 知我不必羞小節而恥功名不常顕于天下也=
③ 知{我不〔必羞(小節)〕而恥[功名不〔常顕(于天下)〕]}也 ⇒
③ {我〔必(小節)羞〕不而[功名〔常(于天下)顕〕不]恥知}也 =
③ {我の〔必ずしも(小節を)羞ぢ〕不し而[功名の〔常には(天下に)顕はれ〕不る]恥づるを知れば}なり。
といふ「漢文訓読」は、「補足構造でない部分」をそのままにして、「補足構造の部分」の「左右」を「入れ換へる」ことによって、成立する。
然るに、
(22)
③ 知我不必羞小節而恥功名不常顕于天下也。
に於いて、
戊=知
三=不
二=羞
一=節
丁=恥
丙=不
乙=顕
甲=下
とするならば、
① 戊{我三〔必二(小一)〕而丁[功名丙〔常乙(于天甲)〕]}也⇒
① {我〔必(小一)二〕三而[功名〔常(于天甲)乙〕丙]丁}戊也=
① {我〔必(小節)羞〕不而[功名〔常(于天下)顕〕不]恥知}也=
① {我の必ずしも〔(小節を)羞ぢ〕不し而[功名の〔常には(天下に)顕〕はれ不るを]恥づるを知れば}也。
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 知我不必羞小節而恥功名不常顕于天下也。
から、
戊=知
三=不
二=羞
一=節
丁=恥
丙=不
乙=顕
甲=下
を除いた、
③ 我 必 小 而 功 名 常 于 天 也
に対しては、「返り点」が、付かない。
従って、
(24)
初めから、
③ 必 常
には、「返り点」が付いてゐない以上、
③ 知我不必羞小節而恥功名不常顕于天下也。
から、
③ 必 常
を除いても、
③ 知我不必羞小節而恥功名不常顕于天下也。
に付く「返り点」は、
③ 戊 三 二 一 丁 丙 乙 甲
のまま、変はる「必要」はないはずである。
然るに、
(25)
FC2④⑤
従って、
(24)(25)により、
(26)
③ 知我不必羞小節而恥功名不常顕于天下也。
から、
③ 必 常
を除いても、「返り点」は、
④ 知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
に付く「返り点」は、
④ 戊 三 二 一 丁 丙 乙 甲
のまま、変はる「必要」がない。にも拘はらず、
④ 知我不羞小節而恥功名不顕于天下也(管鮑の交はり)。
に付く「返り点」は、
④ 戊 三 二 一 丁 丙 乙 甲
ではなく、
④ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
が、「正しい」。
然るに、
(27)
④ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
に対する、
④ 戊 三 二 一 丁 丙 乙 甲
がさうであるやうに、「レ点」は、「必ず、無ければならない」。といふわけではないし、
大学生に返り点を打たせると、レ点の原則違反から生じる誤りが大半をしめます(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、60頁)。との、ことである。
(28)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞な
どいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
然るに、
(29)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論
理、今仁生美)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
「どこまで管到して(かかって)いるか」といふのは、「スコープ(scope)」のことであって、「スコープ(scope)」であれば、
④ 下 レ 二 一 上レ 二 一
④ 戊 三 二 一 丁 丙 乙 甲
といふ「返り点」よりも、
④ { 〔 ( ) 〕 [ 〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」の方が、「分かりやすい」はずである。
平成27年09月08日、毛利太。

コメント (0)
コメントの投稿
前のページ(「白話(中国語)」に於ける「返り点」Ⅱ。)
次のページ(「返り点」。)
プロフィール

タカ

Author:タカ
写真は蛍雪時代(高三)。この頃に、漢文が好きになりました。

リンク
このブログをリンクに追加する
最近の記事
月別アーカイブ
ブログ内検索
RSSフィード
最近のコメント