論理学訓読、漢文訓読(Ⅱ)。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

論理学訓読、漢文訓読(Ⅱ)。

― 「03月08日の記事」をマイナーチェンジします。―
(01)
① 不有人而不死=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① There is not a man that doesn't die.
然るに、
(02)
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① 人にして死せ~るは∃ら~=
① There is not a man that doesn't die.
然るに、
(04)
① ~∃人&~死=
① ~(∃人&~(死))=
① ~(∃(人&~(死)))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
に於いて、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
は、「述語論理」である。
然るに、
(05)
① 不有人而不死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
に於いて、
①  ~( )⇒( )~
① ∃x( )⇒( )∃x
①  人( )⇒( )人
①  ~( )⇒( )~
①  死( )⇒( )死
のやうに、
①  囗( )⇒( )囗
といふ「倒置」を、「括弧の(回)数」だけ行ふと、
① 人而死不有不=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~
といふ「語順」を、得ることになる。
然るに、
(06)
注意2.4.3  ∃xP(x)は、
               ある x があってP(x)である。
あるいは、           
               ある x が存在してP(x)である。
と言っても良いし、場合によっては
               P(x)となる x が存在する。
という言い方もする。要するに、表す内容が同じであれば、表現の仕方にこだわらなくとも良い。
(中内信光、ろんりの練習帳、2002年、94頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(08)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
に於いて、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「漢文訓読」ならぬ、「述語論理訓読」である。
然るに、
(10)
② 少女の(同格)、為る(準体法)、或(有)り。
であるとして、
② 或少女為全少年所愛=
② 或(少女為(全少年所(愛)))=
② (少女(全少年(愛)所)為)或=
② 少女の、全少年の愛する所と為る或り=
② There is a girl who is loved by every boy.
cf.
② 或少女為(全少年所(愛))=
② 或少女(全少年(愛)所)為=
② 或る少女、全少年の愛する所と為る=
② Some girl(s) is(are) loved by all the boys.
であるものの、「辞書」で調べる限り、
② 或少女=或る少女(Some Girl)
といふ「漢文」は無い。
然るに、
(11)
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
② ((x)少女&((y)少年→(yx)愛)∀y)∃x=
② xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
cf.
② There is at least one x such that x is a girl and x is loved by every boy.to render "x is loved by every boy",we think of it as "every boy loves x"― "for all y,if 
y is a boy then y loves x"(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p100).
従って、
(10)(11)により、
(12)
② 或少女為全少年所愛=
② 或(少女為(全少年所(愛)))=
② (少女(全少年(愛)所)為)或=
② 少女の、全少年の愛する所と為る或り=
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
② ((x)少女&((y)少年→(yx)愛)∀y)∃x=
② xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
に於いて、
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
② ((x)少女&((y)少年→(yx)愛)∀y)∃x=
② xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
は、「漢文訓読」ならぬ、「述語論理訓読」である。
然るに、
(13)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(09)(12)(13)により、
(14)
①  ~∃x(人x&~死x)=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
② ∃x(少女x&∀y(少年y→愛yx))=
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
従って、
(09)(12)(14)により、
(15)
①  ~∃x(人x&~死x)=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」であって、
② ∃x(少女x&∀y(少年y→愛yx))=
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
② ((x)少女&((y)少年→(yx)愛)∀y)∃x=
② xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
は、「述語論理訓読」である。
従って、
(09)(12)(15)により、
(24)
① 不有人而不死。
② 或少女為全少年所愛。
といふ「漢文」に対して、
① 不(有(人而不(死)))
② 或(少女為(全少年所(愛)))。
といふ「括弧」を認めないことは、
① ~∃x(人x&~死x)
② ∃x(少女x&∀y(少年y→愛yx))
といふ「述語論理」に対して、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ「括弧」を認めないことに、等しい。
従って、
(25)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ「括弧」を認めるのであれば、
① 不(有(人而不(死)))
② 或(少女為(全少年所(愛)))。
といふ「括弧」も、認めざるを得ない。
然るに、
(26)
「述語論理」が正しく、尚且つ、「論理(Logic)」が、「普遍的」である限り、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
従って、
(25)(26)により、
(27)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
といふこととは、関係なく、
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② 或(少女為(全少年所(愛)))=
② ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
然るに、
(28)
① 不(有(人而不(死)))
② 或(少女為(全少年所(愛)))
に於ける、
① ((( )))
② ((( )))
といふ「括弧」は、
① 三 二 一レ
② 三 二 一レ
に相当する。
cf.
不有人而
従って、
(27)(28)により、
(29)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死。
② 或少女為全少年所愛。
に付く、
① 三 二 一レ
① 三 二 一レ
といふ「返り点」は、認めざるを得ない。
従って、
(30)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、その漢籍に付いてゐる、「返り点(括弧)」まで、否定すべきではない。
従って、
(31)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、「漢文訓読」まで、否定すべきではない。
(32)
∃xP(x)
といふ「述語論理」を、
∃x〔P(x)〕
とした上で、
∃xP(x)=
∃x〔P(x)〕⇒
〔(x)P〕∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
と読むのが、「述語論理訓読」であるに対して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
と読めば、「述語論理音読」である。
従って、
(29)(32)により、
(33)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、
∃xP(x)=
∃x〔P(x)〕⇒
〔(x)P〕∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「述語論理訓読」を否定して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
といふ「音読」を開始したことに、等しい。
然るに、
(34)
そのことは、
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不有x(人x而不死x)=
① ~∃x(人x&~死x)=
① ~(有x(人(x)&~(死(x))))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))。
といふこと、すなはち、
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ事実を、無視してゐる。といふ風に、言はざるを得ない。
平成28年03月08日、毛利太。
(35)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二) 
(36)
漢字はことばではない、文字である。多くの文化人はそのことにふれずして、日本語論を語る。その結果、「訓読みは日本人の発明だ!」などという論調が蔓延してしまっているが、そんな日本と日本人の漢字礼讃傾向に、著者は真っ向から反論する書である。
(田中克彦、漢字が日本語をほろぼす、2011年、A人azonの書評?)
(37)
太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[2]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[3]、日本語のローマ字化は撤回された[4](ウィキペディア:漢字廃止論)。
(38)
あのとき、ローマ字論者であった柴田が、ペルゼルの申し出を拒否せずに、統計の書き直しをしていたら、どうなっていたか。あるいは、ペルゼルが自分の申し出を大人しく引っ込めずに、強く言いつのり、そんなペルゼルに押されて柴田武が折れてしまったら、どうなっていたか。おそらく文部省は、即、ローマ字表記の強制に踏み切ったであろう。そうしたら、日本語は、新字、新かなづかいなどといった、すでに施行された文字改革どころかではなく、ローマ字表記になっていた可能性が大いにあるのである。
(水村美苗、増補 日本語が亡びるとき、2015年、447頁)
(39)
さうであれば、「漢文教育」は、完全に、息の根を止められたゐたことになるため、このやうな「記事」は、存在しなかつたことになる。日本語(と日本の文化=日本らしさ)は、敗戦後の一時期に於いて、「自殺幇助」といふ形で、殺されかけてゐたことになる。そのことを、English Natives の方たちに、是非とも、知つて貰ひたい。
平成28年03月09日、毛利太。
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