返り点、括弧、順序数、集合数。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

返り点、括弧、順序数、集合数。

―「03月18日の記事」を書き直します。―
(01)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
然るに、
(02)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に於いて、
① 読 は、
① 漢文 といふ「2つの漢字」に係ってゐる。
(03)
② 不〔読(漢文)〕⇒
② 〔(漢文)読〕不=
② 〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
② 不 は、
② 読漢文 といふ「3つの漢字」に係ってゐる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
② 不読漢文。
に於いて、
② 読 の「管到」は、「2字」であり、
② 不 の「管到」は、「3字」である。
然るに、
(05)
K(囗)=N
と書いて、「囗 の管到は、N字である。」と、読むことにする。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
③ 我不常読漢文。
に於いて、
K(不)=4
K(読)=2
であるならば、
③ 我不〔常読(漢文)〕。
である。
然るに、
(07)
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
読( )⇒( )読
不〔 〕⇒〔 〕不
といふ「倒置」を行ふと、
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我常には漢文を読まず。
然るに、
(08)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕。
に於ける、
③ 〔( )〕
といふ「括弧」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に他ならない。
然るに、
(10)
③ 我不常読漢文=
③ 162534。
に於いて、
③ 162534⇒
③ 123456。
といふ「並び替へ(ソート)」を行ふと、
③ 我不常読漢文=
③ 162534⇒
③ 123456=
③ 我常漢文読不=
③ 我常には漢文を読まず。
従って、
(07)(10)により、
(11)
③ 我不常読漢文=
③ 162534=
③ 我不〔常読(漢文)〕=
③ 16〔25(34)〕⇒
③ 1〔2(34)5〕6=
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我〔常には(漢文を)読〕ず。
に於ける、
③ 〔( )〕
③ 162534
といふ「括弧」と「数」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に他ならない。
然るに、
(12)
〔問題1〕
数字の順序で読めるように返り点を付けよ。
③ 162534
cf.
16三
従って、
(11)(12)により、
(13)
③ 〔( )〕
③ 162534
③ 三 二 一
といふ「括弧」と「数」と「返り点」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に他ならない。
然るに、
(14)
数は実際の使い方によって,ものの集まりの大きさ(集合の要素の数)を表す集合数(計量数)と,ある物の順番を表す順序数の2つがあります。教科書では,前から4番目の人を指す順序数としての4と,前から4人を指す集合数としての4を取り上げ,その違いをはっきりさせています。
(Webサイト:集合数・順序数|算数用語集)
従って、
(14)により、
(15)
③ 1番 6番 2番 5番 3番 4番 は「順序数」であって、
③ 1個 6個 2個 5個 3個 4個 は「集合数」である。
従って、
(15)により、
(16)
例へば、
3=囗囗囗 といふ「集合数」は、
2=囗囗  といふ「集合数」と、
1=囗   といふ「集合数」を「含んでゐる」。
従って、
(16)により、
(17)
③ 6=(囗囗囗囗囗囗)
③ 2=(囗囗)
③ 5=(囗囗囗囗囗)
③ 3=(囗囗囗)
④ 4=(囗囗囗囗)
に於いて、
③ 6=(囗囗囗囗囗囗)は、
③ 5=(囗囗囗囗囗)から、
③ 2=(囗囗)までの、「4個の集合数」を含んでゐる。
(18)
③ 5=(囗囗囗囗囗)
③ 3=(囗囗囗)
④ 4=(囗囗囗囗)
に於いて、
③ 5=(囗囗囗囗囗)は、
④ 4=(囗囗囗囗)から、
③ 3=(囗囗囗)までの、「2個の集合数」を含んでゐる。
然るに、
(19)
S(囗)=N
と書いて、「囗 は、N個の集合数を含んでゐる。」と、読むことにする。
従って、
(05)(19)により、
(20)
K(囗)=N
と書いて、「囗 の管到は、N字である。」    と、読むことにする。
S(囗)=N
と書いて、「囗 は、N個の集合数を含んでゐる。」と、読むことにする。
従って、
(04)(11)(17)~(20)により、
(21)
③ 我不常読漢文=
③ 162534=
③ 16〔25(34)〕。
に於いて、
K(6)=S(6)=4
K(6)=S(5)=2
である。
従って、
(11)(20)(21)により、
(22)
③ 我不常読漢文=
③ 162534=
③ 我不〔常読(漢文)〕=
③ 16〔25(34)〕⇒
③ 1〔2(34)5〕6=
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我〔常には(漢文を)読〕ず。
に於ける、
③ 〔( )〕
③ 162534
といふ「括弧」と「数(集合数)」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は「補足構造」に他ならない。
然るに、
(23)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである。
(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)
従って、
(20)~(23)により、
(24)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、
「順序数(音声)」として、
③ 我不常読漢文=
③ 123456。
であるべきである。といふ風にだけ、述べてゐて、
「集合数(視覚)」として見れば、
③ 我不常読漢文=
③ 162534。
である。といふことについては、気付いてゐない。
(25)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側の単語が、( と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするのであれば、
④ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑤ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
従って、
(26)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
④ BB (22(1)3AA(55(4)69(78)))⇒
④  ((1)223((4)556(78)9)AA)BB=
④ 1 22 3 4 55 6 78 9 10 10 11 11 。
に於ける、
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))。
といふ「述語論理」を、
左から右へ読むものの、その右側の単語が、( と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
④ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことになる。
(27)
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことになる。
然るに、
(28)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
④ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「述語論理」は、
④ 少女為全少年所愛=
④ 少女為〔全少年所(愛)〕⇒
④ 少女〔全少年(愛)所〕為=
④ 少女〔全少年の(愛する)所と〕為る=
④ 全ての少年が愛してゐる所の少女が存在する。
といふ「漢文」に相当する。
(29)
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
⑤ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理」は、
⑤ 少年皆有其所愛少女=
⑤ 少年皆有〔其所(愛)少女〕⇒
⑤ 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
⑤ 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り=
⑤ 全ての、それぞれの少年には、愛してゐる所の少女がゐる。
といふ「漢文」に相当する。
従って、
(30)
④ 少女為全少年所愛。
⑤ 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」を、
④ 全ての少年が愛してゐる所の少女が存在する。
⑤ 全ての、それぞれの少年には、愛してゐる所の少女がゐる。
といふ風に、「訓読」してはならない。とすることは、
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「述語論理」を、
④ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
⑤ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「訓読」してはならない。としてゐることに、等しい。
然るに、
(31)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
は、「学習しなければ読めない」といふ意味では、「外国語の一種」であって、尚且つ、
④ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
⑤ ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
といふ「記号」の「原文(オリジナル)」は、「英語」である。
従って、
(30)(31)により、
(32)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」か。
といふのであれば、
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
の場合は、「母国語の語順で読んでも良い、外国語」である。
といふことになる。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
だとすれば、
④ 少女為全少年所愛=
④ 少女為〔全少年所(愛)〕。
⑤ 少年皆有其所愛少女=
⑤ 少年皆有〔其所(愛)少女〕。
であっても、
④ 少女、全少年の愛する所と為る。
⑤ 少年皆、其の愛する所の少女有り。
といふ風に、「訓読」してはならないとは、言へないはずである。
平成28年03月20日、毛利太(onomameus)。
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