『括弧』、「返り点」、「白話(北京語)」。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

『括弧』、「返り点」、「白話(北京語)」。

―「04月06日の記事」を書き直します。―
(01)
( )
〔 〕
[ ]
{ }
を「括弧」とする。
(02)
( )の中には、「括弧」は無く、
〔 〕の中には、一つ以上の( )が有り、
[ ]の中には、一つ以上の〔 〕が有り、
{ }の中には、一つ以上の[ ]が有る。
ならば、その時に限って、『括弧』とする。
従って、
(01)(02)により、
(03)
( )
〔( )〕
〔( )( )〕
等は、『括弧』であるが、
〔( 〕)
(〔 )〕
等は、『括弧』ではない。
(04)
「ルール」により、
囗の右側が、{[〔( と接してゐるならば、その時に限って、『より内側の「括弧」の中の囗』を「先に読む」。
従って、
(04)により、
(05)
①    読(漢文)。
② 不〔読(漢文)〕。
③ 有〔読(漢文)者〕。
であれば、
①    3(12)  =漢文を読む。
② 4〔3(12)〕 =漢文を読まず。
③ 5〔3(12)4〕=漢文を読む者有り。
といふ「順番」で、「括弧」の中を「先に読む」。
従って、
(06)
①  (12)3   = (漢文を)読む。
② 〔(12)3〕4 =〔(漢文を)読ま〕ず。
③ 〔(12)34〕5=〔(漢文を)読む者〕有り。
とした上で、「左から右へ読む」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
①    3(12)
② 4〔3(12)〕
③ 5〔3(12)4〕
に於いて、
① (1と2)を 3 よりも「先に読む」。
② (1と2)を 3 よりも「先に読む」。
③ (1と2)を 3 よりも「先に読む」。
従って、
(07)により、
(08)
① 3(12)
② 3(12)
③ 3(12)
④ 2(31)
⑤ 2(41)
⑥ 2(51)
に於いて、
① (1と2)を 3 よりも「先に読む」。
② (1と2)を 3 よりも「先に読む」。
③ (1と2)を 3 よりも「先に読む」。
④ (3と1)を 2 よりも「先に読む」。
⑤ (4と1)を 2 よりも「先に読む」。
⑥ (5と1)を 2 よりも「先に読む」。
然るに、
(09)
④ 2(31)
⑤ 2(41)
⑥ 2(51)
に於いて、
④ (3と1)を 2 よりも「先に読む」。
⑤ (4と1)を 2 よりも「先に読む」。
⑥ (5と1)を 2 よりも「先に読む」。
のであれば、
④ (31)2
⑤ (41)2 
⑥ (51)2
に於いて、「左から右へ読む」。
然るに、
(10)
④ 3>1<2
⑤ 4>1<2
⑥ 5>1<2
従って、
(09)(10)により、
(11)
『括弧』を用ゐて、
④ 2<3>1
⑤ 2<4>1 3
⑥ 2<5>1 3 4
といふ「順番」を、
④ 1<2<3
⑤ 1<2<3<4
⑥ 1<2<3<4<5
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
従って、
(11)により、
(12)
『括弧』を用ゐて、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を、
④ N<N+1<N+M
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
(13)
① 下 二 一 上
といふ「返り点」は、
② 四 二 一 三
といふ風にも、書くことが出来る。
然るに、
(14)
「画像(15)」でも分るやうに、
② 四 二 一 三
から、
② 四
を除くと、同時に、
②       三
も消えて、
③   二 一
となる。
(15)
読漢文者
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 下 二 一 上
といふ「返り点」を、
② 四 二 一 三
といふ風にも、書き換へたとしても、実際には、
② 四 二 一 三
に於いて、
② 二から、三へ、返ってゐる。
といふことには、ならない。
従って、
(16)により、
(17)
「返り点」は、飽く迄も、
「下から上へ返る点」であって、
「上から下へ返る点」ではない。
然るに、
(18)
「返り点」が付いてゐない「漢字」と、
「返り点」が付いてゐる 「漢字」が、有る場合、
「返り点」が付いてゐない「漢字」を、「先に読む」。
従って、
(18)により、
(19)
「画像(20)」で示すやうに、
 文
 読
 漢
であれば、
④ 文読漢=読む漢文。
といふ風にしか、ならないため、
④ 文読漢=漢文を読む。
といふ風に、読むための「返り点」は、
 文
 読
 漢
でなければ、ならない。
(20)
文二読漢一
然るに、
(21)
④ 二 三 一
であれば、
④ 二 → 三
に於いて、「上(左)から下(右)へ返ってゐる」。
従って、
(17)(21)により、
(22)
④ 2 3 1
といふ「順番」を表す、
④ 二 三 一
といふ「返り点」は、有り得ない。
(23)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、四三頁)
従って、
(23)により、
(24)
⑤ 2 4 1 3
⑥ 2 5 1 3 4
であれば、
⑤ 二 下 一 上
⑥ 二 下 一   上
でなければ、ならない。
然るに、
(25)
⑤ 二 下 一
⑥ 二 下 一
であれば、却って、
上下点 である、下 を、
一二点 が、「またいでゐる」。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑤ 2 4 1 3
⑥ 2 5 1 3 4
といふ「順番」を表す、
⑤ 二 下 一 上
⑥ 二 下 一   上
といふ「返り点」は、有り得ない。
従って、
(22)(26)により、
(27)
『返り点』を用ゐて、
④ 2<3>1
⑤ 2<4>1 3
⑥ 2<5>1 3 4
といふ「順番」を、
④ 1<2<3
⑤ 1<2<3<4
⑥ 1<2<3<4<5
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
従って、
(27)により、
(28)
『返り点』を用ゐて、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を、
④ N<N+1<N+M
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
従って、
(12)(28)により、
(29)
『括弧・返り点』を用ゐて、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を、
④ N<N+1<N+M
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
然るに、
(30)
④「任意の順番」は、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を、「含んでゐる」 か、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を、「含んでゐない」か、の「どちらか一方」である。
従って、
(31)
④「任意の順番」は、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を「含んでゐる」か「含んでゐない」かによって、「二つに分ける」ことが、出来る。
従って、
(32)
「与へられた順番」が、仮に、「256個」であったとして、
その内の、「100個」だけが、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を「含んでゐる。」ならば、「残りの156個」は、
④ N+1<N+M>N(NとMは自然数で、M≧2)
といふ「順番」を「含んでゐない。」
従って、
(29)(32)により、
(33)
「156個の順番」に関しては、『括弧・返り点』を用ゐて、
④ N<N+1<N+M
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来る。ものの、
「100個の順番」に関しては、『括弧・返り点』を用ゐて、
④ N<N+1<N+M
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
例へば、
(34)
「100個の中の一つ」が、
④ 3<9>2
④ 7<9>6
を含む、
④ 7 3 9 2 1 6 4 5 8。
であれば、「返り点」は、
④ 下 二 乙 一レ 中 上 甲
であるが、
④ 下 二 乙 一レ 中
といふ『返り点』は、有り得ない。
cf.
一・二点をはさんで返るときは上・中・下点。上・中・下点をはさんで返る時は甲・乙点。甲・乙点をはさんで返る時は天・地(天・地・人)である。
(志村和久、漢文早わかり、1982年、20頁)
然るに、
(35)
④[〔 (1)2〕3(4 5)6]7 8。
に於いて、
>1<2<3<4<5<6<7<8。
であるため、
④ 7 3 2 1 6 4 5 8。
に対して、『括弧』を用ゐて、
④ 1<2<3<4<5<6<7<8<
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
従って、
(29)~(35)により、
(36)
( )
〔 〕
[ ]
{ }
といふ「括弧」と、
 レ
 二 一レ
 下 中 上レ
 丙 乙 甲レ 
 人 地 天レ 
 五 四 三 二 一 ・ ・ ・ ・ ・
 下 中 上
 戊 丁 丙 乙 甲 ・ ・ ・ ・ ・
 人 地 天
といふ「返り点」との間に、「過不足」が生じない限り、
「括弧」 によって表すことが出来る「返読の順番の集合」は、
「返り点」によって表すことが出来る「返読の順番の集合」に等しい。
然るに、
(37)
「画像(38)」で示す通り、
④ 只-管要纏擾我。
⑤ 端‐的看不出這婆‐子的本‐事来。
⑥ 西門慶促‐忙促‐急儧‐造不出床来。
⑦ 吃‐了不多酒。
といふ「白話(話し言葉)」に対しては、
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5 3>1 4
⑥ 2<5 3>1 4
⑦ 2<4 3>1
に「相当」する、
④ 下 二 上 一
⑤ 二 五 三 一 四
⑥ 二 五 三 一 四
⑦ 二 三レ 一
といった、「メチャクチャなそれ」が、付いてゐる。
(38)
九葉ウラ
従って、
(29)(37)(38)により、
(39)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(漢文:ウィキペディア)。しかし私が専門にしている中国明清の白話小説は必ずしも漢文訓読の方法では読めません。「白話」というのは話し言葉をもとにした書面語で、それを読むためには現代中国語の知識が必要になります(Webサイト:中川諭|大東文化大学)。
といふよりも、固より、
④ 只-管要纏擾我。
⑤ 端‐的看不出這婆‐子的本‐事来。
⑥ 西門慶忙促‐急儧‐造不出床来。
⑦ 吃‐了不多酒。
といった、「漢文」ではない所の、「白話文(口頭語)」に対しては、『括弧・返り点』すら、「付ける」ことが出来ない。
然るに、
(40)
⑧ ∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→
といふ「記号」は、
⑧ xを頭とする犬がゐるならば、
といふ風に、読むことも出来る。
然るに、
(41)
⑧ 犬の頭は牛馬の頭ではない=
⑧ 如犬有頭其頭不当為牛馬頭=
⑧ 如し犬に頭有らば、其の頭、当に牛馬の頭為る可からず=
⑧ xが犬である所のyの頭であるならば、xは牛や馬である所のyの頭ではない=
⑧ ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}⇒
⑧ {〔(y)犬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛∨(y)馬&(xy)頭〕∃y]~}∀x=
⑧ {〔(yは)犬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であるか、または、(yは)馬であり、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
であるものの、
⑧ ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}
に対する『返り点』は、「画像(42)」で示す通り、
⑧ 下‐ 三‐ レ 二 一 上レ 三‐ レ レ 二 一
である。
(42)
heads.png
cf.
P=yは犬である。
Q=xはyの頭である。
R=yは牛である。
S=yは馬である。
として、「命題論理」であれば、
(yは犬であって、尚且つ、xがyの頭である。)ならば〔(yは牛であるか、yは馬であって、)尚且つ、xはyの頭である。〕といふことはない=
 (P&Q)→〔(R∨S)&Q〕~ 
 (P&Q)→~〔(R∨S)&Q〕 
~(P&Q)∨~〔(R∨S)&Q〕 
~(P&Q)∨〔~(R∨S)∨~Q〕 
~(P&Q)∨〔(~R&~S)∨~Q〕 
~(P&Q)∨〔~Q∨(~R&~S)〕
~(P&Q)∨〔Q→(~R&~S)〕
~P∨~Q∨〔Q→(~R&~S)〕
~P∨[~Q∨〔Q→(~R&~S)〕]
~P∨[ Q→〔Q→(~R&~S)〕]
 P→[ Q→〔Q→(~R&~S)〕]=
yが犬ならば[xがyの頭ならば〔xがyの頭ならば(yは牛ではなく、尚且つ、yは馬ではない)〕]。
従って、
(36)~(42)により、
(43)
「白話文(話し言葉)」は、『括弧・返り点』を用ゐて、「訓読」することが、出来ず、
「漢文」と「述語論理」は、『括弧・返り点』を用ゐて、「訓読」することが、出来る。
(44)
⑨ 不[有〔人而不(死)〕]⇒
⑨ [〔人而(死)不〕有]不=
⑨ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
に対する『返り点』は、
⑨ レ 二 一レ 
である。
(45)
⑨ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}⇒
⑨ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
⑨ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
に対する『返り点』は、
⑨ レ 二‐ レ 一レ レ
である。
然るに、
(46)
⑨ 不[有〔人而不(死)〕]。
に対して、
⑨ x (x)(x)
を加へると、
⑨ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}=
⑨ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(44)(45)(46)
(47)
ピダハン語や、ヒシカリヤナ語や、エスペラント語を含めた、世界中の言語の中で、「述語論理」に最も近い「言語」は、「漢文(訓読)」である。といふ風に、思はれる。
加へて、
(48)
この「文言文」とは、端的に言えば、前近代の統治に関わる士大夫層の文化の中で流通した特殊な書記言語であり、口頭語の表記すなわち「白文」に対して言えば、ニュアンスを示す語などを簡約していわば記号化された表記の文章言語である(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、300頁)。
従って、
(47)(48)により、
(49)
「漢文」は、「述語論理」のやうな「記号化された言語」であって、
「白話」は、「述語論理」のやうな「記号化された言語」ではない。
然るに、
(50)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人間的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)。
従って、
(50)により、
(51)
⑨ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}⇒
⑨ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
⑨ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
⑩ ∃x[少女(x)&∀y〔少年(y)→愛(yx)〕]⇒
⑩ [(x)少女&〔(y)少年→(yx)愛〕∀y]∃x=
⑩ [(xは)少女であって、尚且つ、〔(yが)少年である。ならば、(yはxを)愛する。〕といふことが、全てのyに於いて、正しい。]といふ、そのやうなxが存在する。
⑪ ∀x[少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)〕]⇒
⑪ [(x)少年→((y)少女&(xy)愛〕∃y]∀x=
⑪ [(xが)少年であるならば、〔(yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。〕といふ、そのやうなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理訓読」を、中島匠一先生であれば、「否定」しないし、多くの論理学の先生も、さうであらうと、思はれる。
然るに、
(52)
「述語論理訓読」が、「否定」されないのであれば、
⑨ 不有人而不死。
⑩ 少女為全少年所愛。
⑪ 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」を、
⑨ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
⑩ 少女〔全少年の(愛する)所と〕為る。
⑪ 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り。
といふ風に「訓読」することも、「否定」すべきではない。
従って、
(53)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語ヲ通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
といふ風に、イギリス人チャンバレン氏が、一八八六年に書いた時、チャンバレン氏は、
「漢文訓読」は、「英語」や「白話文」よりも、むしろ「述語論理訓読」と「比較」すべきである。
といふ風には、思はなかったと、思はれる。
(54)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
とあるやうに、昭和5年に、倉石武四郎先生が「漢籍音読」を始めた時、倉石武四郎先生は、
「漢文」は、「白話文」よりも、むしろ「述語論理」に近い。
といふ風には、思はなかったと、思はれる。
従って、
(55)
「漢文訓読」は、「白話文」よりも、むしろ「述語論理訓読」と「比較」すべきである。といふ「発想」が有れば、
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふやうな「発言」は、なされないものと、思はれる。
然るに、
(56)
もう一度、確認すると、
⑨ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}=
⑨ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}⇒
⑨ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
⑨ {[(x)人&〔(x)死〕不]有x}不=
⑨ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ「述語論理訓読」が、「認められる」のであれば、その一方で、
⑨ 不有人而不死=
⑨ 不[有〔人而不(死)〕]⇒
⑨[〔人而(死)不〕有] 不=
⑨ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふ「漢文訓読」が、「認められない」のは、「不当」である。
従って、
(57)
倉石武四郎先生が、「述語論理訓読」は「否定」せずに、その一方で、「漢文訓読」を、「認めない」のであれば、
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
といふ「言ひやう」は、「不当」である。
(58)
さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国古典は理解できない、などという倒錯した主張をなす者はいなくなった。今から考えてみれば「漢文訓読法」派は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、2頁)。
(59)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
平成28年04月10日、毛利太。
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