鼻はゾウが長い。首はキリンが長い。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

鼻はゾウが長い。首はキリンが長い。

(01)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other <“none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition>(Maccriam Webstar).
従って、
(01)により、
(02)
① AはBであって、
① A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」とする。
然るに、
(03)
① AはBであって、
① A以外はBでない。⇔
① A=B ⇔
① B=A ⇒
① BはAである。
従って、
(03)により、
(04)
① AはBであって、
① BはAである=
① A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」とする。
然るに、
(05)
「論語」といふ世界にあって、
{先生}={孔子}
{弟子}={顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季路、子游、子夏、他、約三千人。}
である。
従って、
(05)により、
(06)
「論語」といふ世界にあって、
① 孔子は先生であって、
① 先生は孔子である=
① 孔子以外は先生ではない。
従って、
(07)
「論語」といふ世界にあって、
① 誰が先生か。
と言へば、
① 孔子が先生である。
然るに、
(08)
① 誰が先生か。
といふ「日本語」に対して、
① 誰は先生か。
といふ「日本語」は、絶対に有り得ない。
従って、
(04)~(08)により、
(09)
Q:誰が先生か。
A:孔子が先生である。
といふことは、
A:孔子が先生である。
といふ「日本語」が、「排他的命題」である。
といふことを、意味してゐる。
然るに、
(10)
① 子為誰(子は誰となす)。
① 誰為先生(誰をか先生となす)。
といふ「漢文」を、「そのままの順」で、「英語」に置き換へると、
① You are who.
① Who is teacher.
然るに、
(11)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)
cf.
WH移動(疑問文)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
① 誰為先生(誰が先生か)。
の場合は、
①「疑問詞(誰)」を「前置」する所の、「強調形」である。
然るに、
(13)
① 誰が先生か。
① 誰は先生か*
に於いて、
① 誰が の「が」は、「濁音」であって、
① 誰は の「は」は、「清音」である。
然るに、
(14)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます。
(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 誰が先生か。
① 誰は先生か*
に於いて、
① 誰は に対する、
① 誰が は、「濁音による、強調形」である。
従って、
(12)(15)により、
(16)
① 誰為先生。
① 誰が先生か。
に於いて、
① 誰為 は、「前置」による「強調形」であって、
① 誰が は、「濁音」による「強調形」である。
然るに、
(17)
① これは、私のです。
① This is mine.
と言ふ場合に、
① 私の(mine)
を「強く発音(強調)」すると、
① これは、私のものであって、
① 私以外の、ものではない。
といふ「意味」になる。
従って、
(17)により、
(18)
「強調形」は、必然的に、「排他的命題」を主張する。
従って、
(16)(18)により、
(19)
① 誰が は、「濁音」による「強調形」であって、「強調形」は、必然的に、「排他的命題」を主張する。
従って、
(04)(19)により、
(20)
① AがBである=
① AはBであって、
① BはAである=
① A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」とする。
然るに、
(21)
② 地球上に、ゾウといふ動物は存在するし、
② 地球上に、ゾウ以外の動物も存在する。
(22)
② 井之頭動物園に、ゾウはゐなくとも、
② 井之頭動物園に、ゾウ以外の動物は存在する。
従って、
(21)(22)により、
(23)
② ゾウは動物である。
② ゾウも動物である。
といふ「命題」は「真(本当)」であって、
② ゾウが動物である。
② 動物はゾウである。
② ゾウ以外は動物ではない。
といふ「命題」は「偽(ウソ)」である。
従って、
(23)により、
(24)
② ゾウがゐる=
② ゐるのはゾウであって、
② ゾウ以外はゐない。
と言へるためには、
②(今、目の前に)ゾウがゐる。
②(今、目の前に)ゐるのはゾウである。
②(今、目の前に)ゾウ以外はゐない。
といふ、「意味」でなければならない。
従って、
(21)(22)(24)により、
(25)
②(地球上に、)  ゾウはゐる。
②(その動物園に、)ゾウはゐますか?
②(ほら、あそこに)ゾウがゐるよ。
といふ、ことになる。
従って、
(25)により、
(26)
② ゾウがゐるよ。
に於ける、
② ゾウ が、{ゾウといふ集合の要素}である。
のに対して、
③ ゾウは鼻が長い。
③ ゾウは動物である。
に於ける、
③ ゾウ は、{ゾウといふ動物の集合}である。
然るに、
(27)
④{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
④ ゾウ の鼻は長い。
④ キリンの鼻は長くない。
④ カバ の鼻も長くない。
④ キリンの首は長い。
④ ゾウ の首は長くない。
④ カバ の首も長くない。
従って、
(27)により、
(28)
④{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
④ 鼻は、ゾウ が長く(、ゾウ以外 の鼻は長くない)。
④ 首は、キリンが長く(、キリン以外の鼻は長くない)。
④ ゾウ が、鼻が長く(、ゾウ以外 の鼻は長くない)。
④ キリンが、首が長く(、キリン以外の首は長くない)。
従って、
(28)により、
(29)
④ 鼻は、ゾウ が長い。
④ 首は、キリンが長い。
④ ゾウ が、鼻が長い。
④ キリンが、首が長い。
と言ふのであれば、
④{鼻}={ゾウの鼻、キリンの鼻、(カバの鼻)}
④{首}={キリンの首、ゾウの首、(カバの首)}
といふ、ことになる。
従って、
(29)により、
(30)
④ 鼻は、ゾウ が長い。
④ 首は、キリンが長い。
④ ゾウ が、鼻が長い。
④ キリンが、首が長い。
と言ふのであれば、この場合は、
③{ゾウ}
といふ{集合}ではなく、
④{ゾウ、キリン}
④{ゾウ、キリン、カバ}
といふ{集合}を「意識」してゐる。
従って、
(30)により、
(31)
③ ゾウは、鼻が長い。
と言ふ場合は、
③{ゾウ}といふ{集合}だけを「意識」してゐて、
④{ゾウ、キリン、カバ、ライオン、シマウマ、ティラノサウルス}といふ{集合}を、「意識」してゐない。
従って、
(20)(31)により、
(32)
③ ゾウは鼻が長い。
といふ「日本語」は、
③{ゾウ}といふ{集合}だけ「意識」した上で、
③ ゾウは、鼻が長い=
③ ゾウは、鼻は長く、
③ ゾウは、鼻以外は長くない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(32)により、
(33)
ワタシ(日本人)が、今、
③ ゾウは
と言へば、その時点で、
ワタシ(日本人)が、
③{ゾウ}だけを「意識」してゐて、{ティラノサウルス}を「意識」してゐない。
といふことを、
アナタ(日本人)は、「知ってゐる」。
然るに、
(34)
③ ゾウは鼻は長い。
といふことと、
③ ゾウは牙も長い。
といふことは、「矛盾」しない。
従って、
(35)
③ ゾウは、鼻だけが、とても長い。
といふ風にだけ、言ひたいのであれば、
③ ゾウは鼻は長い。
とは言はずに、
③ ゾウは鼻が長い。
といふ風に、言ふべきである。
(36)
⑤ ガロアには時間が無い=
⑤ ガロアには、時間は無く、
⑤ ガロアには、時間以外ならば(特には)不足は無い。
といふ「意味」である。
(37)
⑥ 東京には空以外も有る。
といふことからすると、
⑥ 東京には空が無い=
⑥ 東京には空は無く、
⑥ 東京には空以外は有る。
といふのは、ヲカシイ。
然るに、
(38)
「他ならぬ」の「ぬ」は、「ず」の「連体形」である。
cf.
ず ず ず ぬ ね ○
従って、
(39)
「他ならぬ」=「~以外でない所の」は、「排他的命題の、連体形」である。
従って、
(19)(39)により、
(40)
⑥ Aが=(他ならぬ)Aが
であることも、可能である。
従って、
(36)~(40)により、
(41)
敢へて言へば、
⑥ 東京には空が無い=
⑥ 東京には、他ならぬ(空と呼ぶるべき)空が無い。
といふ「気分(意味)」であると、思はれる。
(42)
さうでなければ、
⑤ 私には時間が無い。
といふ「用法」が先にあって、その「用法」を受けての、
⑥ 東京には空が無い。
であると、思はれる。
(43)
 吾輩は猫である。
がある。「吾輩は」といふ発言は檀上の人が聴衆に演説する口調である。自分の姿が檀上にあって、相手も見て知っている場合に使う(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、25頁)。
然るに、
(44)
電話で話す場合は、「相手も見て知っている」とは言へない。にも拘はらず、初めて電話をする相手に対して、
 もしもし、私が大野です。
とは、言はない。
(45)
⑦ I am a cat=
⑦ 吾輩は猫である。
といふのは、
⑦ 吾輩は{猫}といふ{集合}の{一つの要素}である。
といふ「意味」である。
然るに、
(46)
⑦ I am a cat.
ではなく、
⑦ I am the cat.
であれば、
⑦ I=the cat
⑦ The cat=I
である。
従って、
(20)(46)により、
(47)
⑦ 吾輩がその猫(the cat)である=
⑦ 吾輩はその猫(the cat)であって、
⑦ その猫(the cat)は我輩である=
⑦ 吾輩以外にその猫(the cat)はいない。
といふ、ことになる。
従って、
(45)(46)(47)により、
(48)
⑦ 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
であって、
⑦ 吾輩が猫である。名前はまだ無い。
である「理由」は、
⑦ I am a cat.
であって、
⑦ I am the cat.
ではないからである。
然るに、
(21)~(25)により、
(49)
⑧ 猫がゐる=
⑧ ゐるのは猫であって、
⑧ 猫以外はゐない。
と言へるためには、
⑧(今、目の前に)猫がゐる。
⑧(今、目の前に)ゐるのは猫である。
⑧(今、目の前に)猫以外はゐない。
といふ、「意味」でなければならない。
従って、
(50)
⑧ There is a cat in the garden.
といふ「英語」は、普通は、
⑧ 庭に猫がゐる。
といふ「日本語」に、対応し、
⑧ 庭に猫はゐる。
といふ「日本語」には、対応しない。
(51)
⑧ 庭に猫がゐる=
⑧ 庭に猫はゐる(が、猫以外は、ゐない)。
に対して、
⑧ 庭に猫はゐる=
⑧ 庭に猫はゐる。
従って、
(51)により、
(52)
⑧ 庭に猫はゐる=
⑧ 庭に猫はゐる(が、猫以外は、ゐるか、いないか分からない)。
従って、
(51)(52)により、
(53)
⑧ 猫以外は、ゐるか、いないか分からない。
といふことを、言ひたい場合は、
⑧ 庭に、猫はゐる。
といふ風に、言ふことになる。
(54)
【1】[が][の]
(1) 主語を示す。
 日の暮るるとき。 汝がさりし日。
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもの夢のあと。(芭蕉)
(3) 体言の代用をする。
 薬は、唐のはめでたし。 [訳]薬は中国のものがすばらしい。
 この歌、人麻呂がなり。 [訳]この歌は、人麻呂の歌である。
(4) 同格を示す。
 白き鳥の、嘴と足と赤き、水の上に遊びつつ魚を食ふ。(伊勢物語)
[訳]白い鳥で、口ばしと足が赤いのが、水の上を遊びながら魚を食べる。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。
 草の花はなでしこ。(徒然草)
[訳]草花は、なでしこがよい。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、194頁改)
従って、
(54)により、
(55)
⑨ 日が暮れる(現代文)。
に相当する、
⑨ 日の暮る(古文)。
⑨ 日が暮る(古文)。
といふ「日本語」は無く、その代はりに、
⑨ 日が暮れるとき(現代文)。
に相当する、
⑨ 日の暮るるとき(古文)。
⑨ 日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」が、有った。
然るに、
(56)
⑨ 日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」と、
⑨ 父が晩酌するとき(現代文)。
といふ「日本語」は、「並列・可能」である。
従って、
(55)(56)により、
(57)
主格が文末まで係るときは「は」を用いて、節の中だけにしか係らないときは「が」を用いるということを基準にして使い分ける方法がある。
 ・父が晩酌をするとき、つきあう。
 ・父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる。
(「が」の使い分け - 日本語教師のページ 用語検索マンボウ)
に於ける、
⑨ 父が晩酌するとき(現代文)。
⑨ 父が晩酌するとき、つきあう(現代文)。
といふ「現代文」は、
⑨ 日が暮るるとき(古文)。
といふ「古文」から「派生」したと、すべきである。
(58)
⑩ 春はあけぼの。 
これだけで、春はあけぼのに限るとか、春のながめはあけぼのが第一だ、というような気持ちを言外にこめた、いわゆる体言止めの完全な文となっている(三省堂、新明解古典シリーズ4、1990年、3頁改)。
従って、
(58)により、
(59)
⑩ 春はあけぼの(古文)。
といふ「日本語」に加へて、
⑩ 春はたそかれ(古文)。
⑩ 春は日の暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」は有り得た、はずである。
然るに、
(58)(59)により、
(60)
⑩ 春は日の暮るるとき(古文)。
⑩ 春は日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」と、
⑩ 春は日が暮れるとき(現代文)。
といふ「日本語」は、「並列・可能」である。
然るに、
(61)
⑩ 春は日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」と、
⑩ 父は日が暮るるとき(現代文)。
⑩ 父は晩酌をするとき(現代文)。
といふ「日本語」は、「並列・可能」である。
従って、
(58)~(61)により、
(62)
⑩ 春は日が暮れるとき(現代文)。
⑩ 父は晩酌をするとき(現代文)。
⑩ 父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる(現代文)。
といふ「現代文」は、
⑩ 春はたそかれ(古文)。
⑩ 春は日の暮るるとき(古文)。
⑩ 春は日が暮るるとき(古文)。
といふ「古文」から「派生」したと、すべきである。
(63)
⑩ 父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる(現代文)。
⑩ 晩酌をするとき、父は冷や奴を食べる(現代文)。
に於ける、
⑩ 晩酌をするとき、
は、「副詞句」である。
平成28年06月25日、毛利太。
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