宛 荻生徂徠 様。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案
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宛 荻生徂徠 様。

(01)
和訓」を排除するのは、無用にいかめしくむつかしい雰囲気を作る日本語だからである。
過則勿憚改は、アヤマテバスナハチ云云ではなくして、コウ ツヱ ホン ダン カイ。である。それをそのとおりに読むのが、万事のはじまりである。当時はそれを長崎通事の仕事として意識されていたゆえに、彼はそれを「崎陽の学」と呼ぶ。しかし「崎陽の学」はまだ普及しない。二次的な方法として、アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレと、いいかめしい雰囲気を持つ訓読よみを、せめてものことに廃棄する。その代替として、平易な日本語の口語におきかえる。シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。あるいはシクジリハエンリョナクヤリナオセ。そうした俗語へのおきかえを、彼は「」と呼び、従来の訓読「和訓」の方は、「」と呼んで、両者を区別する。かくて「訓」を廃棄して「訳」を方法とすることを、「崎陽の学」すなわち中国音を知らないものは、せめてもの方法とせよ(岩波書店、日本思想大系36、荻生徂徠 、1973年、650・649頁)。
然るに、
(02)
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
であっても、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
であっても、大差はないし、
平易な日本語の口語におきかえる。といふのであれば、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「それ」は、「津軽」であれば、
シクジリソノママセバダバマイネビョン
といふ風に、言ふのかも、知れない。
cf.
面白い青森の津軽弁⑧せばだばまいねびょん
方言の意味:それじゃぁダメだよね
「せばだば」は「それじゃあ」という意味でいろんな文で使われます。例えば「せばだば○○に行こう」と使います。
「まいね」は「ダメ」、「びょん」は「だよね」です。びょんはさすがに他地方の方が聞いたらふざけているように捉えてしまいますよね。
然るに、
(03)
さうであれば、津軽の青年が、荻生徂徠に弟子入りする場合は、荻生徂徠が話す「」は、弟子である津軽の青年にとっての、「」ではない。といふことに、なる。
従って、
(04)
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「江戸弁の訳」の他に、
シクジリソノママセバダバマイネビョン
といふ「津軽弁の訳」や、その他に、「会津弁の訳」や、「大阪弁の訳」や、「鹿児島弁の訳」等が、無ければならない。
然るに、
(05)
さのやうに、「いくらでも多くの」があっても、良いのであれば、その中には、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「」があったとしても、「特に、問題」が生じるとは、思へないし、固より、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「言ひ方」が、「むつかしい雰囲気を作る日本語」である。といふのは、飽く迄も、「荻生徂徠の、主観」に過ぎない。
(06)
江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[5]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総」と述べている(ウィキペディア)。
(07)
予は十四歳の時に南総に流れ落し、二十五歳で赦されて江戸に還るまでの十三年間、田夫野老の中で暮らす毎日で、学問上の師も友も持てなかった。ただ父の篋中にあった「大学諺解」一冊、これは父の手沢本であったが、この書物を一生懸命に何度も読んだものである。すると久しくして、群書に通じるようになった(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、78頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
十四歳から、二十五歳までの間、学問上の師も友も持てなかったが、「独学」で、何度も「大学諺解」を読んだことが、荻生徂徠の学問の基礎を作った。
然るに、
(09)
学問上の師も友も持てなかった。といふのであれば、いはんや、その当時の荻生徂徠は、漢詩文を、「唐音(中国語音)」で音読することは、出来なかったことになる
然るに、
(10)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むために、意味がわからなくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(11)
訓読」の際には、「意味」が分るならば、そのときに限って、「読める」ものの、
音読」の際には、「意味」が分からなくとも、「声に出す」ことは、「可能」である。
といふことに、荻生徂徠は、気付いたこと、になる。
然るに、
(12)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)。
従って、
(12)により、
(13)
徂徠は「題言十則」のなかで、
読書不如看書(書を音読することは、書を看ることに及ばない)。
看書愈於読書(書を看ることの方が、書を音読することよりも優れてゐる)。
といふ風に、述べてゐて、尚且つ、
唯だ一双の眼は、三千世界の人に「共通」であるため、
看書(書を看る)ことに関しては、何処にゐても、「可能」である。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(14)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
看書(書を看る)ことは、読書(書を音読する)ことよりも、優れてゐるし、
看書(書を看る)ことに関しては、世界中の何処にゐても、「可能」である。
といふ風に、述べてゐた、その、荻生徂徠が、
漢文訓読法排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきであると、主張した、ことになる。
(16)
「今学者訳文ノ学ヲセント思ハバ、悉ク古ヨリ日本ニ習ヒ来ル和訓ト云フモノト字ノ反リト云フモノトヲ排除スベシ」。反り点排除するのは、中国語の原語序破壊だからである。
然るに、
(17)
例へば、
① 不〔読(書)〕。
の場合であれば、「訓読」は、
② 〔(書を)読ま〕ず。
といふ「語順」であっても、
① 書 が、読 の「補語」であるといふこと。
② 書 が、読 の「補語」であるといふこと。
に関しては、
①=② であって、
① 不 が、「不」意外の「全体」を「否定」してゐること。
② ず が、「不」意外の「全体」を「否定」してゐること。
に関しても、
①=② である。
従って、
(18)
① 不〔読(書)〕。
② 〔(書を)読ま〕ず。
に於いては、「語順」は「異なる」ものの、
① 〔 ( ) 〕。
② 〔 ( ) 〕。
といふ「構造」に関しては、「変り」が無い
然るに、
(19)

大学伝五章
(20)
しばしばとりあげられる〈語順〉の問題、元来はまっすぐに書かれた漢文返り点をつけた、転倒しながら読むのは不自然だという考え方、などは、むしろ些少なことにすぎないかもしれない。かえって、修飾や支配関係を、まったく構造を異にする日本語という言語と対比させることによって、はっきりとうかびあがらせる効用があるというべきである。
是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
そこで大学での始めの教えは、学習者が天下の物すべてについて、彼がすでに知っている理を手がかりとしてますますこれをきわめ、そしてその極点にまで到達することを求めるようにせしめる(原文では、「求めないことはいっさいないように、ぜともせしめる」)のである。
このよう複雑文章でも、返り点があることによって、簡明直截に文字のかかり方を知ることができる(平凡社、日本語の歴史2、2007年、155・156頁改)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
例へば、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」したとしても、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使。
に於ける、
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」は、「不変」であって、尚且つ、「括弧・返り点」があることによって、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のやうな「複雑な文章」でも、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
のやうに「簡明直截」に「文字のかかり方」を知ることができるが故に、「転倒しながら読む」のは不自然だという考え方、などは、むしろ「些少なことにすぎない
従って、
(16)(21)により、
(22)
反り点を排除するのは、返り点が、中国語の原語序の破壊だからである。
と言ふ、荻生徂徠は、その一方で、
反り点があるこらこそ、返り点が、中国語の原語の「構造」を保存する。
といふことには、気付いてゐない
然るに、
(23)
二(五[三〔一)〕四]
に於いて、
二( )⇒( )二
五[ ]⇒[ ]五
三〔 〕⇒〔 〕三
といふ「移動」を行ふと、
二(五[三〔一)〕四]⇒
([〔一)二〕三四]五。
然るに、
(24)
[ 〔 ( ) 〕 ]
に対して、
( [ 〔 )〕 ]
といふ「それ」は、「括弧」ではないし、
二 五 三 一 四
のやうな、
二 → 三
三 → 四
を含む「(右に戻る)それ」は、「返り点」ではない
然るに、
(25)
大学伝五章 
従って、
(24)(25)により、
(26)
端‐的看 這婆‐子的本‐事
西門慶促‐忙促‐急儧造 不
のやうな「白話(口語)」には、「括弧・返り点」を、付けることが、出来ない
従って、
(20)(21)(26)により、
(27)
荻生徂徠が排斥した、「漢文訓読法」に於ける、「漢文の構造」と「訓読の構造」は、「同じ」であって、
荻生徂徠が推奨した、「唐音直読法」に於ける、「唐話の構造」と「訓読の構造」は、「同じ」ではないものの、恐らく、
荻生徂徠は、そのことを、知る由も無い。
平成29年06月24日、毛利太。
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