「論理式」としての「漢文」。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

「論理式」としての「漢文」。

(01)
① 無親而不愛其子=
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
に於いて、
① 無[ ]⇒[ ]無
① 不〔 〕⇒〔 〕不
① 愛( )⇒( )愛
といふ「移動」を行ふと、
① 無[親而不〔愛(其子)〕]⇒
① [親而〔(其子)愛〕不]無=
① [親にして〔(其の子を)愛せ〕不るは]無し=
① [親であって〔(自分の子供を)愛さ〕ない者は]ゐない。
然るに、
(02)
① 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
② 全ての親は、自分の子供を愛す。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
②「xが親である」ならば「或るyはxの子供である」。
といふことは、
②「全てのx」に於いて「正しい」。
然るに、
(04)
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]。
に於いて、
② 親( )⇒( )親
② 子( )⇒( )子
② 愛( )⇒( )愛
といふ「移動」を行ふと、
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]⇒
② ∀x[(x)親→∃y〔(yx)子&(xy)愛〕]=
② 全てのxに於いて[(xが)親ならば、或る〔(yはxの子であって)、尚且つ(xはyを)愛す〕]。
といふ「述語論理訓読」が、成立する。
従って、
(03)(04)により、
(05)
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]。
といふ「論理式」は、要するに、
② 全ての親は、自分の子供を愛す。
といふことに、他ならない。
従って、
(01)(02)(05)により、
(06)
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国外国語母国語の語順読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
然るに、
(08)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者の方であっても、
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]。
といふ「論理式」を、
② 全てのxに於いて[(xが)親ならば、或る〔(yはxの子であって)、尚且つ(xはyを)愛す〕]。
といふ「語順」で、「日本語」として「読む」ことに関しては、「反対」はされない筈である。
従って、
(06)(08)により、
(09)
① 無親而不一レ其子
といふ「返り点の付いた、漢文」を、「論理式」とするならば、
① 無親而不愛其子=
① 無[親而不〔愛(其子)〕]⇒
① [親而〔(其子)愛〕不]無=
① [親にして〔(其の子を)愛せ〕不るは]無し=
① [親であって〔(自分の子供を)愛さ〕ない者は]ゐない。
といふ「語順」で、「日本語」として「読む」ことに関しても、一概には、「反対」されないものと、思はれる。
平成29年09月08日、毛利太。
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