古典的名著「三上章、象は鼻が長い」について。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

古典的名著「三上章、象は鼻が長い」について。

(00)
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(01)
ドイツ第一の日本語学者 Dr. Wenck は、わが Mikami を日本第一の文法研究家として推奨。
(『日本読書新聞』'64.2.3. 金田一春彦氏の書評から)
(02)
三上は、学者として、海外では広く知られていますが、国内では、それほど有名とは言へないでしょう。それは、国語学会が完全に無視しようと躍起になっているからです。なぜなら、三上の説を認めると、学校文法が根こそぎ崩壊してしまうからです。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、まえがき)
(03)
② BはAである。
④ A以外Bでない
といふ「日本語」は、
②  B→ A=BならばAである。
④ ~A→~B=AでないならばBでない
といふ風に、「書き換へる」ことが、出来る。
然るに、
(04)
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
  2 (2)   ~A 仮定
    3(3) B    仮定
12 (4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1)~A→~B 仮定
  2 (2)    B 仮定
    3(3)~A    仮定
12 (4)   ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6) A    35背理法
1  (7) B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(03)(04)により、
(05)
② BはAである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
②=④ である。
cf.
対偶(Contraposition)」は、互いに等しい。
然るに、
(06)
① AはBである。
② BはAである。
に於いて、
① は、② の「」であって、
② は、① の「」である。
然るに、
(07)
このように逆には(1)真でないときと(2)真であるときがあります。そこで(1)と(2)をひっくるめて「はかならずしも真ならず」といいます。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① AはBである。
② BはAである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも
①=② ではないが、必ず、
②=④ である。
然るに、
(09)
① 東京は日本である。
日本は東京である。
③ 東京日本である。
④ 東京以外は日本ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(10)
① 東京は日本の首都である。
日本の首都は東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
従って、
(12)
① これは良いです。
② 良いのはこれです。
③ これが良いです。
④ これ以外は良くない。
に於いても、必ずしも。
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(13)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ これいいです。
と言ふのであれば、それだけで、
② 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(これを下さい)。
といふ「意味」になる。
従って、
(12)(13)により、
(14)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ これいいです。
とは言はずに、
① これいいです。
と言ふのであれば、
① 良いのはこれです(とは言へない)。
① これ以外は良くないとは言へない)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
① 良いのはこれです(とは言へない)。
① これ以外は良くない(とは言へない)。
と言ふのと、
② 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないこれを下さい)。
と言ふのとでは、「意味」が「」である。
然るに、
(16)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
これはいいです。(用)
これいいです。(用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型意義になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
従って、
(12)~16)により、
(17)
三上先生は、
これはいいです。(不用)
これいいです。(用)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
といふこには、気付いてゐるものの、
① これは良いです。
良いのはこれです。
③ これ良いです。
④ これ以外は良くない
に於いても、必ずしも。
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことには、気付いてゐない
従って、
(02)(11)(17)により、
(18)
国語学会が完全に無視しようと躍起になっているから、海外では広く知られていますが、国内では、それほど有名とは言へない、三上章先生は、
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふ、「基本的な事実」にさえ、気が付いてゐない
然るに、
(19)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いても、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ、「最も基本的な日本語」に対する、「基本的な知識」さえ、持たないままに、組み立てられた、「日本語の文法論」が「正しい」ことなど、あるはずがない。
(20)
それは、私します。
という日本語文は、どうなるのでしょう。これも、総主語と称主語で片付けることができるのでしょうか。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、15・16頁)
然るに、
(21)
① 私はします
ではなく、
③ 私します。
と言ふのであれば、
するのは、私です。
③ 私します。
④ 私以外はしないでいいです。
であるため、この場合も、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いても、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
(22)
作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とします」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、38頁)
然るに、
(23)
「ゴボウは汚れを落とします」は、「ゴボウは(料理をするあなた、自分で)汚れを落とします。」といふ「意味」である。
(24)
8 「Xは」のピリオド超え
「Xは」の磁力線の強さは、文末はおろか、ピリオド(マル、句点)を超えて、次に続くセンテンスにまで及ぶことたたびたびあります。
F氏は大手企業の役員。みるからに知的な紳士であり、その辣腕と博学は社内外で高名だ。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、104頁)
然るに、
(25)
古文であれば、
+動詞+て+  +動詞+て・・・・・。
であっても、
主語+動詞+て+主語+動詞+て・・・・・。
である。といふ風に、東進ハイスクールの荻野文子先生が、YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=IeBO4U9QZO4)の、「開始から4分45秒」で言ってゐる。
従って、
(24)(25)により、
(26)
古文であれば、
F氏は大手企業の役員。みるからに知的な紳士であり、その辣腕と博学は社内外で 高名だ。
ではなく、
みるからに知的な紳士に、 その辣腕と博学は社内外に高名なり。
であっても、「日本語として正しい」といふか、荻野文子先生曰く、「かうした例が、一番多い。」
cf.
荻野文子先生曰く、「て」で繋がるなら「主語一緒、AさんならA。」
(27)
① 象はゐる
ゐるのは象だ。
③ 象ゐる
④ 象以外はゐない
に於いて、
②=③=④ であるため、
③ 象ゐる。
といふ「日本語」は、
②(今、目の前に)ゐるのは象である。
④(今、目の前に)象はゐて(象以外はゐない)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(28)
③ 象ゐる。
と言ふのであれば、「(ある時ある場所にゐる)具体的な、個別」の「象ゐる」ことになる。
cf.
③ 昔昔、ある所に、二頭の象住んでゐました。お婆さん象ではなく、お爺さん象、川へ洗濯へ行きました。
然るに、
(29)
① 象動物である。
と言ふのであれば、
集合としての「象」のことであるため、
① 象は鼻長い。
といふ場合の「象」は、{集合}としての、「象」であるとする。
然るに、
(30)
これまでに、何度も書いた通り、
① 象動物である。
と言ふのであれば、
①{象}以外については、何も述べてゐない
従って、
(31)
① 象鼻は長い。
と言ふのであれば、
①{象}と{象の鼻}以外については、何も述べてゐない
然るに、
(32)
③ 象は鼻長い。
と言ふのであれば、
③{象の鼻}と{鼻以外の、象のパーツ}を「比較」して、そのやうに、述べてゐる。
然るに、
(33)
③ 象は、鼻牙が長い。
といふ風に、思ってゐるのであれば、
③ 象は鼻長い。
とは、言はない。
従って、
(33)により、
(34)
③ 象は鼻長い。
といふ「日本語」は、
③ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻がある。
③ その動物が象であるならば、その動物の鼻以外のパーツは長くない
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(35)
③ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻がある。
③ その動物が象であるならば、その動物の鼻以外のパーツは長くない。
といふ「日本語」は、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
③ ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「述語論理」に、「翻訳」され、その「直訳」は、
③ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyは、そのxの鼻であって、尚且つ、yは長い。
③ すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ、「日本語」に、相当する。
然るに、
(36)
次に示す通り、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
③ ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ、「二つの論理式」は、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ、「一つの論理式」に、「等しい」。
(37)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              1&E
1 (3)   象a→∃y(鼻yx&長y)               2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            1&E
1 (5)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             4UE
 2(6)   象a                          A
12(7)      ∃y(鼻yx&長y)               63CP
12(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             65CP
12(9)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  78&I
1 (ア)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3(3)   象a                          A
13(4)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  23MPP
13(5)      ∃y(鼻yx&長y)               4&E
1 (6)   象a→∃y(鼻yx&長y)               35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              6UI
13(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             4&E
1 (9)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            7ア&I
然るに、
(38)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}
に対する「直訳」は、
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ、「日本語」に、相当する。
従って、
(34)(38)により、
(39)
③ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に関して、
③ 象は鼻長い=
③ 象は鼻長く、鼻以外は長くない
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
③ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻があって、その動物の鼻以外は長くない
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(40)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(40)により、
(41)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於いて、
③ ∀x の、
③  x の「意味」は、
③   {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} に、及んでゐる
然るに、
(42)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於いて、
③ ∀x の、
③  x は、象 である。
従って、
(39)~(42)により、
(43)
③ 象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
③ 象は の「意味」は、
③    鼻が長く、鼻以外は長くない。 に、及んでゐる
然るに、
(44)
③    鼻が長く、鼻以外は長くない。 には、
③       すなはち、
③        がある。
従って、
(43)(44)により、
(45)
③ 象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於ける、
③ 象は の「意味」は、
③    鼻が長く鼻以外は長くない。 に於ける、
③        超えてゐる
然るに、
(46)
3 コンマ超え
「Xハ」は、ピリオドにさえさえぎられないのですから、コンマ(テン、とう点)にさえぎられないことは言うまでもありません。
(三上章、象は鼻が長い、第13版、1982年、130頁)
従って、
(39)(45)(46)により、
(47)
三上先生が、言ふところの「コンマ超え」は、
③ 象は鼻が長い=
③ 象は鼻は長く、鼻以外は長くない=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「事実」に対する、「証左」であると、すべきである。
然るに、
(48)
そこでたとえば「象は鼻長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、
「すべてのxについて、もしが象であるならば、なるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
といえばいいかもしれない。
(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)
然るに、
(49)
④ すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふ「それ」は、
④ ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}
といふ「述語論理」に、対応する。
従って、
(39)(48)(49)により、
(50)
③ 象は鼻が長い=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とすべきところを、沢田先生は、
④ 象は鼻が長い=
④ ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}。
といふ風に、されてゐる。
然るに、
(51)
そこで私たちは主語を示す変項を文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、F はもとの文の主語に対応し、G述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
然るに、
(52)
③ 象は鼻長い。
であるとして、
③ 鼻が長い動物は何か。
といふ風に、問はれれば、「答へ」は、
③ 象 である。
(53)
③ 象は鼻長い。
であるとして、
③ 長いのはどの部分か。
といふ風に、問はれれば、「答へ」は、
③   鼻 である。
従って、
(51)(52)(53)により、
(54)
いづれにせよ、「述語論理」といふ「観点」からずれば、
③ 象は鼻長い≒
④ ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}≒
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるところの、
③ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、
③ x=象 といふ「主語」と、
③ y=鼻 といふ「主語」が、無ければ、ならない。
然るに、
(55)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『には主語必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。 ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)
従って、
(48)(54)(55)により、
(56)
英語のやうな言語」を「基準」にすれば、「このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。」としても、
「述語論理」を「基準」にすれば、
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理・日本語」は、「象x」と「(象xの)鼻y」といふ、少なくとも、「二つの主語」を持つ「論理的な文」である。
(57)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ  鼻ガ 長イ。
総主語 主語
私ハ 腹ガ  痛イ。 
主語 対象語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
然るに、
(58)
普通は、
③ 腹痛い。
と言ふのであって、
③ 私痛い。
とは、言はない。
然るに、
(11)により、
(59)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(11)により、
(60)
③ 私は腹痛い。
と言へば、
痛いのは私の腹である。
④ 私の腹以外は痛くない
といふ、「意味」になる。
従って、
(60)により、
(61)
③ 私は腹痛い。
とは言はずに、
① 私は腹痛い。
と言へば、
① 私は、腹痛いし、頭痛い。
のかも、知れない。
従って、
(60)(61)により、
(62)
④ 私の腹以外は痛くない
のであれば、
③ 私は腹痛い。
と言ふべきであって、
① 私は腹痛い。
といふ風に、言ふべきではない。
(63)
ついこの間見た、テレビCMの中の、若い男女の会話に、
① 甘いものは好きですか。
① 今日好きです。
といふのが、ある。
然るに、
(64)
① 甘いものは好きですか。
① 好きです。
と言はずに、
① 今日好きです。
と言ふのであれば、
④(今日以外は好きではないけれども)今日は好きです。
といふ「意味」になる。
然るに、
(64)により、
(65)
① 甘いものは好きですか。
④(いつもは好きではないれど)今日は好きです。
といふのであれば、
④(いつもは好きではないれど、あなたがさう言ふのであれば)今日は好きです。
といふ「意味」である。
然るに、
(66)
① 甘いもの好きですか。
④(普段は、甘いものはあまり食べないが、あなたがさう言ふのであれば)今日好きなので(あなたと一緒に甘いものを食べたい)。
といふのであれば、「会話」が、成立する。
いづれにしても、
(67)
もう一度、確認すると、
① 三上章は日本人である。
日本人は三上章である。
③ 三上章日本人である。
④ 三上章以外は日本人ではない
に於いて、
① は、「本当」であって、
② は、「ウソ」であって、
③ も、「ウソ」であって、
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(68)
① 三上章は「象は鼻が長い」の著者である。
② 「象は鼻が長い」の著者は三上章である。
③ 三上章「象は鼻が長い」の著者である。
④ 三上章以外は「象は鼻が長い」の著者ではない
① は、「本当」であって、
② も、「本当」であって、
③ も、「本当」であって、
④ も、「本当」である。
従って、
(67)(68)により、
(69)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
といふ「日本語」に於いて、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことは、「学説」ではなく、「事実(fact)」である。
従って、
(70)
もう一度、書くものの、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いても、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ、「最も基本的な日本語」に対する、「基本的な知識」さえ、持たないままに、組み立てられた、「日本語の文法」が「正しい」ことなど、あるはずがない
従って、
(39)(70)により、
(71)
名著であるとされてゐる「象は鼻が長い」の中で書かれてゐることは、取るに足らない。
然るに、
(72)
『「象は鼻長い。」の「主語」は何ですか?』といふ生徒からの「質問」に対して、「答へ」を用意できない「日本語教師」にとって、「日本語から、主語を抹殺した、三上理論」ほど、「好都合な文法理論」は、無いことになる。
然るに、
(73)
2 主語を補うテクニック
古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省かれている文が多いことです。主語がわかれば文はずいぶんと読みやすくなります。次のテクニックをつかいましょう。
①「人物」の直後に読点(、)があるとき、98%が主語になる。
「人物」は、機械的に「は・が」を補って主語にするのだと覚えてください。
② 接続詞の「て」「で」の前後は、98%同一人物が主語になる。
(荻野文子、古文マドンナ解法、1993年、11頁)
従って、
(72)(73)により、
(74)
「日本語から、主語を抹殺した、三上理論」は、「外国人に、日本語を教へる際には、役に立つ。」としても、「古文を読解する上では、全く、役に立たない。」
然るに、
(75)
今では、日本語文法イコール三上文法と言えるくらい、三上は貢献しています。ただし、これは外国人に教える場合の日本語です。
(76)
外国人に日本語を教へる場合、その外国人は、「古文や、漢文」までは、読まうとしない方が、「普通」なはずである。
従って、
(77)
外国人に日本語を教へる場合、それが「便利」であるならば、外国人には、「三上文法」を教へれば良い。といふ、ただ、それだけのことである。
然るに、
(78)
人称代名詞主語としてつかわれることは、意を強める場合か、対照的の場合のほかはないといっていい。これは普通主語動詞の語尾に表されていて、すぐわかるからである。
Ego te laudtu me non laudas.
ここで ego(私)といい、tu(お前)というのは、特に「自分だ、と褒めるのは自分だと強調したからであり、また、一方、tu と対照させたからである。ego も tu もなくとも laudo、laudas だけで分るわけである。
(村松正俊、ラテン語四週間、1961年、182頁)
然るに、
(79)
⑤ 君汲川流我拾薪=
⑤ 君は川流を汲め、我は薪を拾はん=
⑤  You, draw water from the river! I'll gather firewood.
でなくて、
⑤ 薪を拾ふから、川流を汲んでくれ。
であっても、
⑤ 我は薪を拾はん、君は川流を汲め。
である。
従って、
(78)(79)により、
(80)
「我・君」が無くとも、「我・君」が有るといふ点に於いて、「日本語」の場合も、「ラテン語」の場合と同様である(が、日本語には、人称語尾も無い)。
然るに、
(81)
⑤ 私薪を拾ふから、君は川流を汲んでくれ。
ではなく、
⑥ 私薪を拾ふから、君は川流を汲んでくれ。
といふのであれば、
⑥「薪を拾ふのは、君ではなく、私である。」といふ「意味」が、「強く」なる。
従って、
(78)(81)により、
(82)
⑤ 私・は(清音) に対する、
⑥ 私・音) は、「強調形」であるに、違ひない。
然るに、
(83)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(84)
もし音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(82)(83)(84)により、
(85)
⑤ 私・は(清音) に対する、
⑥ 私・音) は、「強調形」である。
従って、
(81)(85)により、
(86)
① 東京は日本の首都である。
に対して、敢へて、
③ 東京日本の首都である。
と言ふのであれば、その場合は、
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ、「意味」になる。
cf.
排他的命題(Exclusive proposition)」。
然るに、
(87)
④ 東京以外は日本の首都ではない
の「対偶」は、
② 日本の首都は東京である。
であって、「対偶」の「真理値」は、必ず、「等しい」。
従って、
(86)(87)により、
(88)
① 東京は日本の首都である。
日本の首都は東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふ、ことになる。
従って、
(88)により、
(89)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
といふことは、「必然的な、帰結」である。
然るに、
(14)により、
(90)
三上章先生は、そのことに、気付くことは無かった。
従って、
(91)
そのやうな三上先生が書いた、「三上文法」を、積極的に評価する人物が奉ずる「理論」を、私自身は、評価しない。
平成30年02月17日、毛利太。
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