「象は鼻が長い。」他の「述語論理」的表現。 - 返り点に対する「括弧」の用法について提案

「象は鼻が長い。」他の「述語論理」的表現。

(01)
① 全ての人の母は優しい。
② 全ての人には母がゐて、その母は優しい。
③ ∀x{人x→∃y(母yx&優y)}。
④ 全てのxについて、xが人ならば、あるyはxの母であって、yは優しい。
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(02)
① 全ての象は鼻は長い。
② 全ての象には鼻があって、その鼻は長い。
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
④ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 全ての人の母は優しい。
① 全ての象は鼻は長い。
といふ「日本語」に於ける「論理的構造(シンタックス)」は、両方とも、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)}。
である。
然るに、
(04)
① 全ての人の母は優しい。
① 全ての象は鼻は長い。
といふ「日本語の構造」は、「同じ」ではないと、あるいは、言ふかも知れない。
然るに、
(05)
「論理学」の「目的」は、「正しい推論」と、「正しくない推論」の「識別」にある。
然るに、
(06)
1  (1)∀x{Fx→ ∃y(Gyx&Hy)} A
1  (2)   Fa→ ∃y(Gyx&Hy)  1UE
 3 (3)∃x(Fx)             A
  4(4)   Fa              A
1 4(5)       ∃y(Gyx&Hy)   24MPP 
13 (6)       ∃y(Gyx&Hy)  345EE
1  (7)∃x(Fx)→∃y(Gyx&Hy)  36CP
∴  (8)「全てのxについて、xがFならば、あるyはxのGであって、yはHであって」、「Fであるxが存在する」ならば、「あるyはxのGであって、yはHである」。
といふ「推論」は、「正しい」。
従って、
(06)により、
(07)
(8)「全てのxについて、xが人ならば、あるyはxの母であって、yは優しく」、「人であるxが存在する」ならば、「人の母であって、優しいyが存在する。」。
(8)「全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く」、 「象であるxが存在する」ならば、「象の鼻であって、 長いyが存在する。」。
といふ「推論」は、「正しい」。
従って、
(03)(05)(07)により、
(08)
① 全ての人の母優しい。
① 全ての象は鼻長い。
といふ「日本語」に於ける「論理的構造」は、両方とも、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)}。
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
1    (1)∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)} A
1    (2)   Fa→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)  1UE
 3   (3)∃x(Fx)                         A
  4  (4)   Fa                          A
1 4  (5)      ∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)  24MPP   
1 4  (6)      ∃y(Gyx&Hy)               5&E
13   (7)      ∃y(Gyx&Hy)               346EE
1 4  (8)                 ∀z(~Gzx→~Hz)  5&E 
13   (9)                 ∀z(~Gzx→~Hz)  348EE
13   (ア)                    ~Gbx→~Hb   9UE
   イ (イ)                          Hb   A
    ウ(ウ)                    ~Gbx       A
13  ウ(エ)                         ~Hb   アウMPP
13 イウ(オ)                    ~Hb&Hb     イエ&I
13 イ (カ)                   ~~Gbx       ウオRAA
13 イ (キ)                     Gbx       カDN
13   (ク)                     Hb→Gbx    イキCP
13   (ケ)                  ∃z(Hz→Gzx)   クEI
13   (コ)      ∃y(Gyx&Hy)& ∃z(Hz→Gzx)   7ケ&I
13   (サ)∃x(Fx)&∃y(Gyx&Hy)&∃z(Hz→Gzx)   3コ&I
13   (シ)あるxはFであって、あるyはxのGであってHであって、あるzがHであるならば、zはxのGである。
13   (ス)ある象は象であって、あるyは象の鼻であって長く、   あるzが長い  ならば、zは象の鼻である。
13   (セ)従って、鼻の長い象である所のxが存在する。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(03)(05)(08)(09)により、
(10)
① 象は鼻は長い。
② 象は鼻長い。
の「論理的構造」は、それぞれ、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)}=
① 全てのxについて、xがFならば、あるyはxのGであって、yはHである。
② ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}=
② 全てのxについて、xがFならば、あるyはxのGであって、yはHであって、全てのzについて、zがxのGでないならば、zはHでない。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
それでは、狭義の述語論理において究極的な主語となるものは何であろうか。それは「人間」というような一般的なものではない。また「ソクラテス」も述語になりうるし、「これ」すらも「これとは何か」という問に対して「部屋の隅にある机がこれです」ということができる。
そこで私たちは主語を示す変項を文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
 (xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
 SはPである。
という一般的な 主語述語文は、
 Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(12)
「ソクラテス(固有名詞)」は「主語」ではなく、「これ(指示代名詞)」すら「主語」ではない。
然るに、
(13)
ならば、「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
「象(普通名詞)」  は「主語」ではなく、
「これ(指示名詞)」 も「主語」ではなく、
「ぼく(人称名詞)」 も「主語」ではなく、
「サンマ(普通名詞)」も「主語」ではなく、
述語論理」に於ける、「主語」とは「」といった「変数(項)」である。
然るに、
(15)
① 象は、鼻が長い。
② 三つの中では、これがいいです。
③ 君たちはともかく、ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、
① 全てのxについて、xが象ならば、  あるyはxの鼻であって、     yは長く、     全てのzについて、zがxの鼻でないならば、     zは長くない。
② 全てのxについて、xが品ならば、  あるyはxの中の「これ」であって、yは良く、     全てのzについて、zがxの「これ」でないならば、  zは良くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、  あるyはxが食べたいものであって、yはウナギであって、全てのzについて、zがxが食べたいものでないならば、zはウナギではない。
④ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、    yはうまく、    全てのzについて、zが目黒のxでないならば、    zはうまくない。
といふ風に、「翻訳」することが出来る。
従って、
(05)(09)(10)(15)により、
(16)
① 象は鼻長い。
② これいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語の、論理的構造」は、全て、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}=
① 全てのxについて、xがFならば、あるyはxのGであって、yはHであって、全てのzについて、zがxのGでないならば、zはHでない。
でなければ、ならない。
然るに、
(17)
⑤ こんにゃくは太らない。といふのであれば、
⑤ こんにゃくが存在するならば、こんにゃくを食べて、太らない人間が、存在する。
然るに、
(18)
1  (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1  (2)   蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
 3 (3)∃x(蒟蒻x)                 A
  4(4)   蒟蒻a                  A
1 4(5)        ∃y(人y&食yx&~太y)  24MPP
13 (6)        ∃y(人y&食yx&~太y)  345EE
1  (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)  36CP
1  (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(17)(18)により、
(19)
⑤(全ての)こんにゃくは太らない。
⑤ こんにゃくが存在するならば、こんにゃくを食べて、太らない人間が、存在する。
といふ「日本語(一般論)」は、
⑤ ∀x{蒟蒻x  →∃y(人y&食yx&~太y)}。
⑤ ∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)。
といふ「述語論理」に、「置き換へ」ることが、出来る。
従って、
(16)(19)により、
(20)
① 象は鼻長い(の論理構造)。
③ ぼくはウナギだ(の論理構造)。
⑤ こんにゃくは太らない(の論理構造)。
に於いて、
①=③   であるが、
  ③=⑤ ではない。
然るに、
(21)
いづれにせよ、
① 象は鼻長い。
② これいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る
といふことと、
① 首の長い象がゐる。
② これよりもあれがいい。
③ ぼくはカレーが食べたい。
④ サンマは目黒ではなく、日本橋魚河岸の方がうまい。
といふことは、「矛盾」する。
然るに、
(22)
例へば、
② これよりもあれいい。
といふことと、
② 全てのxについて、xが品ならば、あるyはxの中の「これ」であって、yは良く、全てのzについて、zがxの「これ」でないならば、zは良くない。
といふこととは、「矛盾」する。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
② これいいです。   と、
② これよりもあれいい。が、「矛盾」するといふことは、
② これいいです。   といふ「日本語」には、
② ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}=
② 全てのxについて、xがFならば、あるyはxのGであって、yはHであって、全てのzについて、zがxのGでないならば、zはHでない。
といふ「論理構造」が有る。といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(24)
② これいいです。
ではなく。
① これはいいです。   と、
② これよりもあれいい。は、「矛盾」しない。
何となれば、
(25)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
① これはいいです。
② これいいです。
と言ふのであれば、それぞれ、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これいいです(これを下さい)。
といふ風に、「反対」の「意味」になるからである。
すなはち、
(26)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとガで意味が反対になることがある。
 これはいいです。(用)
 これいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が議になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
といふ「事情」があるからである。
すなはち、
(23)~(26)により、
(27)
② これいいです。   と、
② これよりもあれがいい。が、「矛盾」し、
① これはいいです。   と、
② これいいです。   は、「反対」であるため、
① これはいいです。   と、
② これよりもあれいい。は、「矛盾」しない
然るに、
(28)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型異議になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ「説明」では、一体何故、
① これはいいです。(用)
② これいいです。(入用)
であるのかといふ、「その点」が、「全く、理解」できない。
従って、
(23)~(28)により、
(29)
例へば、
② これいいです。
といふ「日本語」、すなはち、
②(これらの中では)これがいいです。
といふ「日本語」は、明らかに、
② ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}=
② 全てのxについて、xが品ならば、あるyはxの中の「これ」であって、yは良く、全てのzについて、zがxの「これ」でないならば、zは良くない。
といふ「意味」であるものの、「その点」に、三上章先生は、気付いてはゐない。
従って、
(30)
① 象は鼻長い。
といふ「日本語」が、
① 象は鼻長い=
① 象であるすべてのxの鼻は長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「意味」であるといふことを、三上章先生は、気付いてはゐない。
(31)
伝統論理学を速水滉『論理学』(16)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(62)を参照することとする。
(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)
然るに、
(32)
「象は鼻長い」はどれが主辞かわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
 象は 鼻が長い。 
 主辞 賓辞
とはっきりしている。
(三上章、日本語の論理、1963年、13頁)
然るに、
(33)
そこでたとえば「象は鼻長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている。
(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)
然るに、
(34)
沢田先生の言ふ、「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
を「翻訳」すると、
① 象は鼻が長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻y&所有xy&長y)}=
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことになる。
然るに、
(35)
① yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、
といふことは、要するに、
或るyは、x鼻であり、
といふことである。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① ∃y(鼻y&所有xy&長y)}。
といふ「論理式」は、
① ∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「論理式」に、「等しい」。
従って、
(34)(35)(36)により、
(37)
沢田先生の「象は鼻長い。」は、
① 象は鼻長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}=
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
であって、
私が言ふ「象は鼻長い。」は、
② 象は鼻長い=
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
② 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
である。
従って、
(37)により、
(38)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① が沢田先生の「それ」であって、② が私の、「それ」である。
従って、
(33)~(38)により、
(39)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
から、                ∀z(~鼻zx→~長z)  を「省いた式」が、沢田先生の、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。 である。
従って、
(31)~(39)により、
(40)
新興の記号論理学として、三上章先生が、参照した「沢田充茂『現代論理学入門』(62)」の場合は、
① 象は鼻が長い=象は鼻長い。
となってゐて、
② 象は鼻長い=象は鼻は長く、鼻以外は長くない
とは、なってゐない。
然るに、
(41)
② 象は鼻長い=象は鼻は長く、鼻以外は長くない
といふことは、
② 象は を「省略」すると、
②   鼻長い=  鼻は長く、鼻以外は長くない
といふことに、他ならない。
然るに、
(42)
(a)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(b)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 26条件法
従って、
(42)により、
(43)
② BはAである。
② A以外はBでない
は、「対偶」であるため、両者は、「同じ意味」である。
従って、
(41)(43)により、
(44)
② 鼻が長い=鼻は長く、鼻以外は長くない
といふ「日本語」は、
② 鼻が長い=鼻は長く、長いのは鼻である。
といふ「日本語」に、「等しい」。
従って、
(44)により、
(45)
② 私理事長です=私は理事長であって、私以外理事長ない
といふ「日本語」は、
② 私理事長です=私は理事長であって、理事長は私である。
といふ「日本語」に、「等しい」。
従って、
(45)により、
(46)
② 私理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長私です。
といふ「日本語」に「置き換へ」られるのは、「当然」である。
然るに、
(47)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(43)(45)(46)により、
(47)
② 私理事長です。
といふ「日本語」が、
理事長は私です。
といふ「日本語」に「置き換へ」られるといふことを、三上章先生は、知ってゐたにも、かかはらず、三上先生は、
理事長は私です。
の「対偶」が、
② 私以外は理事長でない
である。といふことには、気付いてゐなかった。
然るに、
(48)
② 私理事長です。
といふ「日本語」が、
理事長は私です。
といふ「日本語」に「置き換へ」られ、
理事長は私である。
の「対偶」が、
② 私以外は理事長でない
であるとすれば、それだけで、充分に
② 私理事長です=
② 私は理事長であって、私以外は理事長ではない
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(31)(48)により、
(49)
伝統論理学を速水滉『論理学』(16)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(62)を参照することとする。
とし、「日本語の論理、1963年」を上梓した三上章先生は、「論理学」を、知ってゐたとは、言へない。
従って、
(50)
 犬は、動物である。
 xが犬であれば、そのxは動物である。
 犬である→動物である。
 犬⊃動物 (沢田『入門』一一八ぺ)
この結果は、もちろん国際的に通用する。そうであってこそ論理学である。
(三上章、日本語の論理、1963年、39頁)
といふ風に、記してゐる三上章先生は、「論理学」には、興味があっても、それ程熱心に、「論理学」を学んだとは、言へないやうである。
(51)
もっとも、偏差値66くらひの高校を卒業し、金谷先生が入学した、東大に入りたいといふことなど、夢にも思はずに、とある社会科学系の学部を卒業した私は、論理学や、言語学や、古文・漢文の、専門的な訓練を受けたことが、一切無い。
従って、
(50)(51)により、
(52)
そのため、あまり偉そうなことは、言へないものの、三上章先生は、少なくとも、「論理学」を学んだ上で、「日本語の論理」を書くべきであったと、思ひます。
(53)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。
といふことに、賛同すると、
② 私理事長です=
② ∃x{私x&∀y(理事長y→(y=x)}=
② あるxは私であって、全てのyについて、yが理事長であるならば、yはxと同一人物である。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(54)
② 私理事長です=
② ∃x{私x&∀y(理事長y→(y=x)}。
であるならば、
② 私x=xは私である。
に於ける、
② 私 は、「述語(Predicate)」であって、「主語(Subject)」ではない。
従って、
(55)
② 私理事長です=
② ∃x{私x&∀y(理事長y→(y=x)}。
であるならば、
② 私理事長です。
といふ「日本語」には、「主語(Subject)」が無い
然るに、
(56)
漢文を読むコツ
[1]主語や目的語は省略されることが多いので、まず述語(動詞・形容詞・形容動詞)に着眼する。
(片桐功雄、難関大突破 極める漢文、2010年、16頁)、
(57)
2 主語を補うテクニック
古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。主語がわかれば文はずいぶんと読みやすくなります
(荻野文子、古文マドンナ解法、1993年、11頁)
主語や目的語や補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が、誰を、誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる。で皆さんは何でその主語になるのかよくわかんないまま、またノートに、訳のところに、一生懸命、書いて覚えて、テストを受けてる。さっきも言いました。自力です。自力で補足するんです。
(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)
従って、
(55)(56)(57)により、
(58)
② 私理事長です=
② ∃x{私x&∀y(理事長y→(y=x)}。
であるならば、
② 私理事長です。
といふ「日本語」に、「主語(Subject)」が無いものの、「主語」といふ「用語」が、「古文・漢文」で使へないとすると、固より、「古文・漢文の勉強」は、「始めること」さへ、出来ない。
 ―「君の名は」より、男子高校生三人(?)の会話 ―
(59)
Q:迷ったア? お前さア、どうやったら「通学」で、迷えんだよ?
A:あア、えーと、ワタシ、
Q:ワタシ?!
A:ワタクシ。
Q:ううむ??
A:ボク。
Q:ハアア?
A:オレ。
A:ううん。
従って、
(59)により、
(60)
オレ」といふ「名詞」は、「三人の中で、オレと、言ひ得る中の一人」といふ「意味」である。
従って、
(61)
「ワタシ」も、「ワタクシ」も、「ボク」も、「たき君(実は、女子高生の三つ葉)」では、有り得ない。
従って、
(62)
「ワタシ」も、「ワタクシ」も、「ボク」も、「」ではない
従って、
(62)により、
(63)
金谷武洋先生が、言ふやうに、「日本語」に、「人称名詞」は有っても、「人称名詞」は、無い。
(64)
「この点について、皆さんは、どう思ふのか?」といふことを、「ヤフー!知恵袋(Yahoo! Answers)」他に質問しようと、思ふのですが、右のやうな「理解」でよいのか(?)といふことを、予め、金谷先生、あるいは、ちえ蔵様より、お教へ願へるのであれば、幸いです。
平成30年03月03日、毛利太
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写真は蛍雪時代(高三)。この頃に、漢文が好きになりました。

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